荻野 敏(国府病院)
「大人のピタゴラスイッチ」(NHK Eテレ,平成25年1月2日・3日放送)
ピタゴラスイッチって番組を知ってますか?
NHKのEテレ(教育テレビ)で放送されている子供向けの番組です。そもそもピタゴラスイッチは子供たちにいろんな考え方を楽しく伝える番組です。子供向けと言っても大人も十分に楽しめる内容で僕も一時期ハマっていました。ピタゴラ装置って言う仕掛けが秀逸でDVDも何巻か持ってます(笑)。
さて、今回取り上げる「大人のピタゴラスイッチ」は平成25年1月2日と3日の深夜に2回放送されました。第1回は「ちょいむず」で第2回は「かなりむず」です。大人のピタゴラスイッチですからちょっと難しめで、大人の知的好奇心をそそるような内容でした。皆さんは見ましたか?僕はもちろん録画して保存していますよ。
それぞれの回で、知っているようで実はよくわからないし、説明できないような単語がテーマになっています。第1回「ちょいむず」のテーマは「アルゴリズム」。さて皆さん、アルゴリズムという言葉を説明できますか?ピタゴラスイッチの中でよく知られているものに「アルゴリズム体操」や「アルゴリズム行進」があります。また、コンピュータのプログラムなどで時折でてくる用語でもある、その「アルゴリズム」です。アルゴリズムとは広辞苑では「問題を解決する定型的な手法・技法」と記載されています。大人のピタゴラスイッチでは「ある問題を解くための計算手順や処理手順」と説明されていました。ちなみにアルゴリズムの語源はアラビアの数学者アル=フワリズミーの名に由来します。第2回「かなりむず」のテーマは「機構」。機械内部の構造やからくりを意味します。「機構」にはさまざまなものがあり、「歯車」や「カム」や「リンク」などを思い浮かべると分かりやすいです。ちなみに「かなりむず」では「認知科学」も取り上げています。
このような、大人の知的好奇心をちょっとくすぐる番組が大好きで、よく見ます。物事の裏側には僕らが知らない、見えないものがたくさんあるということを実感できるし、知った上で物事を見ると違う解釈ができたりして楽しい。リハビリテーションにおいて患者の運動機能障害を解釈して、訓練を構築するのも、事象の裏側に存在する見えないものと相対することと同義だと考えています。僕たちはまだまだ知らないことだらけです。でも知ることは楽しいことでもあります。凝り固まった大人の頭をくすぐり、知的好奇心を抱かせてくれる番組でした。続編は未定らしいですが、年に何回かでいいので是非レギュラー化してほしい番組です。
(^_^)
2013年2月16日土曜日
2013年2月2日土曜日
間違いの効用
井内 勲(岡崎共立病院)
間違いの効用 H.L.ローディガー/B.フィン
別冊日経サイエンス184 成功と失敗の脳科学, 44-49. (2012):日経サイエンス社
我々は患者に認知課題を設定する。それは対象が自らの身体を受容表面として外部世界との相互作用を構築していく上で、欠如しているであろう情報を問題とする。その課題の難易度の設定はというと・・・結構、苦渋する。
この著者は学習の効果について様々な研究より、正答を得ようと推測し失敗することが学習に役立つと述べ、学習を始める前にテストを受ける学生はその内容を、事前にテストを受けない学生より深くかつ長く覚えていると言っている。
学習において、「間違えない学習」を重視し学習条件を整えるよりも、間違わざるをえないような条件下に置かれた場面にこそ、よく学び、また長く記憶に残す事ができるという。
その事前テストによる学習の促進は、『問題に答えようとして間違えるという経験』にまさに由来しており、「間違えない学習」を心がけるのではなく、教師は学生達に対して、教材による学習を始める前にその主題に関する問題に答えるように仕向けるべき(そうする事は、必然的に多くの間違いを犯すことになる)であると述べ、またこの正しい答えを思い出したりゼロから考えたりするように自分自身を仕向けれる戦略にて、記憶力は高まると言っている。
まず少し時間を設けて自力で答えを見つけるようにする。そして何かの学習中に自分自身に課したテストに正解できなくても、その過程は無駄であるどこころか有益であり、ただ漠然と学習を続けるよりも、はるかに有益であるとしめている。
先の課題設定、最近接領域の見極めの難渋さに対して、まずは患者自身に課題に向き合って知覚仮説を立て、意識的な経験として探索をおこなうように仕向ける戦略が大切だということを再認識した。またもし難易度が高すぎた課題設定をしてしまったとしても、そこで患者自身がしっかり取り組んで結果、間違えるという経験をしたのならば、学習においてただ漠然と繰り返し訓練を重ねているよりも有益であり、今後の学習の可能性を充分に秘めていると感じさせられた文章であった。
間違いの効用 H.L.ローディガー/B.フィン
別冊日経サイエンス184 成功と失敗の脳科学, 44-49. (2012):日経サイエンス社
我々は患者に認知課題を設定する。それは対象が自らの身体を受容表面として外部世界との相互作用を構築していく上で、欠如しているであろう情報を問題とする。その課題の難易度の設定はというと・・・結構、苦渋する。
この著者は学習の効果について様々な研究より、正答を得ようと推測し失敗することが学習に役立つと述べ、学習を始める前にテストを受ける学生はその内容を、事前にテストを受けない学生より深くかつ長く覚えていると言っている。
学習において、「間違えない学習」を重視し学習条件を整えるよりも、間違わざるをえないような条件下に置かれた場面にこそ、よく学び、また長く記憶に残す事ができるという。
その事前テストによる学習の促進は、『問題に答えようとして間違えるという経験』にまさに由来しており、「間違えない学習」を心がけるのではなく、教師は学生達に対して、教材による学習を始める前にその主題に関する問題に答えるように仕向けるべき(そうする事は、必然的に多くの間違いを犯すことになる)であると述べ、またこの正しい答えを思い出したりゼロから考えたりするように自分自身を仕向けれる戦略にて、記憶力は高まると言っている。
まず少し時間を設けて自力で答えを見つけるようにする。そして何かの学習中に自分自身に課したテストに正解できなくても、その過程は無駄であるどこころか有益であり、ただ漠然と学習を続けるよりも、はるかに有益であるとしめている。
先の課題設定、最近接領域の見極めの難渋さに対して、まずは患者自身に課題に向き合って知覚仮説を立て、意識的な経験として探索をおこなうように仕向ける戦略が大切だということを再認識した。またもし難易度が高すぎた課題設定をしてしまったとしても、そこで患者自身がしっかり取り組んで結果、間違えるという経験をしたのならば、学習においてただ漠然と繰り返し訓練を重ねているよりも有益であり、今後の学習の可能性を充分に秘めていると感じさせられた文章であった。
2013年1月13日日曜日
セラピストによる教示やフィードバックは学習に有効か?
林 節也(岡崎共立病院)
題名「セラピストによる教示やフィードバックは学習に有効か?」
谷 浩明 理学療法学21.69-73.2006
患者に学習という観点から臨床を展開していくなかで、セラピストの言語が非常に重要であることに気づく。自分が参加した日本認知運動療法研究会第3回マスターコースでもセラピストの言語の重要性についての講義があった。患者の記述(内部観察)をキャッチすることも重要であるが、そこに関わるセラピストの言語(教示やフィードバック)が患者の学習には重要な道具の一つだと思う。
今回、この文献に出会い、患者に対するセラピストの声掛けや教示、フィードバック等の考え方の足りなさを再認識し、臨床を振り返ることができたと思う。文献では「教示の与える時期や量によっては学習を阻害する」と述べられている。確かに与える情報量が多かったり難易度が設定されていなければ、患者にとっての最近接領域ではなく学習を阻害していくのだと思う。
また、「外在的フィードバックが多いと内在的フィードバックが減少し学習を阻害する」とも述べられている。ただ単にフィードバックを与えるのではなく、外部から人工的に与えられる外在的フィードバックと視覚、固有受容感覚などの内在的フィードバックをうまく使い分けなければいけない。
セラピストとして関わっていく中で、教示やフィードバックの与える影響を再確認し、プラス面だけでなくマイナス面として作用すること。安易な一言が学習の阻害因子となることを常に考えながら臨床に臨まなければいけないと思った文献でした。
題名「セラピストによる教示やフィードバックは学習に有効か?」
谷 浩明 理学療法学21.69-73.2006
患者に学習という観点から臨床を展開していくなかで、セラピストの言語が非常に重要であることに気づく。自分が参加した日本認知運動療法研究会第3回マスターコースでもセラピストの言語の重要性についての講義があった。患者の記述(内部観察)をキャッチすることも重要であるが、そこに関わるセラピストの言語(教示やフィードバック)が患者の学習には重要な道具の一つだと思う。
今回、この文献に出会い、患者に対するセラピストの声掛けや教示、フィードバック等の考え方の足りなさを再認識し、臨床を振り返ることができたと思う。文献では「教示の与える時期や量によっては学習を阻害する」と述べられている。確かに与える情報量が多かったり難易度が設定されていなければ、患者にとっての最近接領域ではなく学習を阻害していくのだと思う。
また、「外在的フィードバックが多いと内在的フィードバックが減少し学習を阻害する」とも述べられている。ただ単にフィードバックを与えるのではなく、外部から人工的に与えられる外在的フィードバックと視覚、固有受容感覚などの内在的フィードバックをうまく使い分けなければいけない。
セラピストとして関わっていく中で、教示やフィードバックの与える影響を再確認し、プラス面だけでなくマイナス面として作用すること。安易な一言が学習の阻害因子となることを常に考えながら臨床に臨まなければいけないと思った文献でした。
2012年12月15日土曜日
クリニカルリーズニング
進藤 隆治(国府病院)
「クリニカルリーズニング」から考えたこと
PTジャーナル第43巻第2号 特集:クリニカルリーズニング
「クリニカルリーズニング」という言葉を最近聴くが私自身はこの言葉を知らなかった。しかし、興味を持つきっかけになったのが、私も参加したいと思ってできなかったニューロセミナー臨床編において、森岡周先生の講義「神経科学を用いたクリニカルリーズニング」を聴いた先生方の多くが賞賛していたからだ。今回はPTジャーナル第43巻第2号で記載されているクリニカルリーズニングの特集を読み、その後、仮説検証について自分なりに考えたことを書きたいと思う。
クリニカルリーズニングは「臨床推論」といわれるもので、「対象者の訴えや症状から病態を推測し、仮説に基づき適切な検査法を選択して対象者に最も適した介入を決定していく一連の心理的過程を指す。この過程は、気づきとともに経験や知識に基づく理論的思考による鑑別と選択の連続で、仮説を検証する工程を繰り返している」(内山)とある。
また、学生指導にも思考過程が用いられており、「最終的には学生自身で自己フィードバック(メタ認知、批判的思考)し、自己学習ができるようになること」(有馬)とあった。
まず、自分が考えたことは仮説検証の作業の重要性である。
認知運動療法(ETC)では演繹法を用い、セラピストは「問題-仮説-検証」といった認識論的な視点から患者を捉えるが、クリニカルリーズニングでも仮説・検証といった思考過程は重要とされている。もちろん仮説検証の過程は専門的知識に裏付けされたものでなければならないが、ETCにおいても神経生理学的視点を持つことで裏付けされた情報をもとに治療が行われる。
今更ではあるが、神経科学・神経心理学といった知識を身につけ神経生理学的視点を自分なりに考察することが仮説検証を行っていく過程において重要であると実感した。
次に考えたことは仮説検証の作業における落とし穴についてである。
「仮説には帰無仮説と対立仮説とが存在する」(吉尾)とあるが、つまり証明されてほしくない仮説と説明されることが歓迎される仮説があるということである。これにより知見を集める(情報収集)際にバイアスがかかり偏った結果を導くことがあるということが指摘されている。このことからも仮説検証作業において相当な根拠のもと客観的立場で臨む必要があるといえる。
検証作業において、なぜ、良くなったか・良くならなかったか、もっと良くできなかったかどうか、他にアプローチの仕方はなかったかどうかなど、言い出せばきりはないぐらいが、あらゆる可能性を考慮しなければならない。これを行っていこうと思うと、時間との戦いもあるし、複数の患者に対して同時進行をしていくのにはかなり難しい(弱音を吐いているように思われてしまうが・・・)。だが、少しでも仮説検証を明確にしていくためにも、自分の思考過程をフィードバックし、批判的思考を付け加えて考えていくことが必要である。
今回はクリニカルリーズニングについて調べるとともに仮説検証について考えさせられた。仮説検証に対してどれだけ裏付けされた情報をもってこられるか、自分の思考過程に対して客観的な態度をとれるかといった要点を挙げた。治療において仮説検証を繰り返していく作業はより厳密に行っていかなければと改めて思った。
「クリニカルリーズニング」から考えたこと
PTジャーナル第43巻第2号 特集:クリニカルリーズニング
「クリニカルリーズニング」という言葉を最近聴くが私自身はこの言葉を知らなかった。しかし、興味を持つきっかけになったのが、私も参加したいと思ってできなかったニューロセミナー臨床編において、森岡周先生の講義「神経科学を用いたクリニカルリーズニング」を聴いた先生方の多くが賞賛していたからだ。今回はPTジャーナル第43巻第2号で記載されているクリニカルリーズニングの特集を読み、その後、仮説検証について自分なりに考えたことを書きたいと思う。
クリニカルリーズニングは「臨床推論」といわれるもので、「対象者の訴えや症状から病態を推測し、仮説に基づき適切な検査法を選択して対象者に最も適した介入を決定していく一連の心理的過程を指す。この過程は、気づきとともに経験や知識に基づく理論的思考による鑑別と選択の連続で、仮説を検証する工程を繰り返している」(内山)とある。
また、学生指導にも思考過程が用いられており、「最終的には学生自身で自己フィードバック(メタ認知、批判的思考)し、自己学習ができるようになること」(有馬)とあった。
まず、自分が考えたことは仮説検証の作業の重要性である。
認知運動療法(ETC)では演繹法を用い、セラピストは「問題-仮説-検証」といった認識論的な視点から患者を捉えるが、クリニカルリーズニングでも仮説・検証といった思考過程は重要とされている。もちろん仮説検証の過程は専門的知識に裏付けされたものでなければならないが、ETCにおいても神経生理学的視点を持つことで裏付けされた情報をもとに治療が行われる。
今更ではあるが、神経科学・神経心理学といった知識を身につけ神経生理学的視点を自分なりに考察することが仮説検証を行っていく過程において重要であると実感した。
次に考えたことは仮説検証の作業における落とし穴についてである。
「仮説には帰無仮説と対立仮説とが存在する」(吉尾)とあるが、つまり証明されてほしくない仮説と説明されることが歓迎される仮説があるということである。これにより知見を集める(情報収集)際にバイアスがかかり偏った結果を導くことがあるということが指摘されている。このことからも仮説検証作業において相当な根拠のもと客観的立場で臨む必要があるといえる。
検証作業において、なぜ、良くなったか・良くならなかったか、もっと良くできなかったかどうか、他にアプローチの仕方はなかったかどうかなど、言い出せばきりはないぐらいが、あらゆる可能性を考慮しなければならない。これを行っていこうと思うと、時間との戦いもあるし、複数の患者に対して同時進行をしていくのにはかなり難しい(弱音を吐いているように思われてしまうが・・・)。だが、少しでも仮説検証を明確にしていくためにも、自分の思考過程をフィードバックし、批判的思考を付け加えて考えていくことが必要である。
今回はクリニカルリーズニングについて調べるとともに仮説検証について考えさせられた。仮説検証に対してどれだけ裏付けされた情報をもってこられるか、自分の思考過程に対して客観的な態度をとれるかといった要点を挙げた。治療において仮説検証を繰り返していく作業はより厳密に行っていかなければと改めて思った。
2012年12月2日日曜日
Tom & Jerry
首藤 康聡(岡崎南病院)
この作品を皆さんもきっと一度は、いや何度も見たことがあるんじゃないでしょうか?
この作品は体が大きく凶暴だが、おっちょこちょいでどこか憎めない部分のあるネコのトムと、体は小さいが頭脳明晰で、追い掛けてくるトムをことも無げにさらりとかわすネズミのジェリーのドタバタを、ナンセンスとユーモアたっぷりに描いた作品ですが、最近、うちの子供が何度もDVDを見ては笑い転げています。もちろん大人の僕が見ても面白くいつも笑ってしまいます。
さて、このアニメの特徴は圧倒的に言葉が少ないという点ではないでしょうか?軽快なバックミュージックや効果音で盛り上げてはいますが、その大半が無言で表現されています。ところが日本語の吹き替え版になるとわかりやすくするためなのか、原作で2匹が話をしていないような場面でも日本語で2匹が話をしています。
さて、皆さんはどちらが面白いと思うでしょうか?実はこれを見ていた妻と僕は同じ意見でした。それは圧倒的に原作の方が面白いという意見でした。普通考えれば日本語であるためストーリーもわかりやすく、理解しやすいので面白いと感じると思いませんか?でも答えは違いました。それは一体なぜなんでしょうか?
もちろんこれには色々な理由があると思います。そのうちの一つが「わかりやすさ」にあると思います。原作では言葉が少ないため、コミカルな2匹の動きやそれを脚色するバックミュージックが絶妙なバランスで見事にマッチングしているのです。ここに日本語が必要以上に追加されることで、そのバランスを崩してしまい表現力が損なわれてしまったんではないでしょうか?
つまり情報が多すぎることでそのバランスを失ってしまったというわけです。最近はインターネットが当たり前の世の中で、情報に困ることはありません。しかし、情報に満たされてしまうと探索する事を忘れてしまいます。だって待っているだけで情報は寄せられますからね。情報は多い方が良い。そう思う事はあります。しかし、多すぎても良いとは限りません。
認知神経リハビリテーションは患者さんと相互作用しながら訓練が展開していきます。しかし、訓練を展開して行く中でついつい情報が多くなってしまうことはありませんか?そうすれば患者さんは能動的探索は行わなくなるかもしれません。
その他にも色々と考えるヒントを探すにはピッタリの物語だと思います。ただ、もう一つオススメする理由があります。いかがでしょう?忙しい日々の中で思いっきり笑う時間を作って見ませんか?きっと素敵な時間が過ごせるはずですよ。
この作品を皆さんもきっと一度は、いや何度も見たことがあるんじゃないでしょうか?
この作品は体が大きく凶暴だが、おっちょこちょいでどこか憎めない部分のあるネコのトムと、体は小さいが頭脳明晰で、追い掛けてくるトムをことも無げにさらりとかわすネズミのジェリーのドタバタを、ナンセンスとユーモアたっぷりに描いた作品ですが、最近、うちの子供が何度もDVDを見ては笑い転げています。もちろん大人の僕が見ても面白くいつも笑ってしまいます。
さて、このアニメの特徴は圧倒的に言葉が少ないという点ではないでしょうか?軽快なバックミュージックや効果音で盛り上げてはいますが、その大半が無言で表現されています。ところが日本語の吹き替え版になるとわかりやすくするためなのか、原作で2匹が話をしていないような場面でも日本語で2匹が話をしています。
さて、皆さんはどちらが面白いと思うでしょうか?実はこれを見ていた妻と僕は同じ意見でした。それは圧倒的に原作の方が面白いという意見でした。普通考えれば日本語であるためストーリーもわかりやすく、理解しやすいので面白いと感じると思いませんか?でも答えは違いました。それは一体なぜなんでしょうか?
もちろんこれには色々な理由があると思います。そのうちの一つが「わかりやすさ」にあると思います。原作では言葉が少ないため、コミカルな2匹の動きやそれを脚色するバックミュージックが絶妙なバランスで見事にマッチングしているのです。ここに日本語が必要以上に追加されることで、そのバランスを崩してしまい表現力が損なわれてしまったんではないでしょうか?
つまり情報が多すぎることでそのバランスを失ってしまったというわけです。最近はインターネットが当たり前の世の中で、情報に困ることはありません。しかし、情報に満たされてしまうと探索する事を忘れてしまいます。だって待っているだけで情報は寄せられますからね。情報は多い方が良い。そう思う事はあります。しかし、多すぎても良いとは限りません。
認知神経リハビリテーションは患者さんと相互作用しながら訓練が展開していきます。しかし、訓練を展開して行く中でついつい情報が多くなってしまうことはありませんか?そうすれば患者さんは能動的探索は行わなくなるかもしれません。
その他にも色々と考えるヒントを探すにはピッタリの物語だと思います。ただ、もう一つオススメする理由があります。いかがでしょう?忙しい日々の中で思いっきり笑う時間を作って見ませんか?きっと素敵な時間が過ごせるはずですよ。
2012年11月16日金曜日
人は見た目が9割
佐藤 郁江(岡崎南病院)
竹内一郎 新潮新書 2005
言葉だけでは語れないものが存在します。今までいろいろな所で話を聞いています。この本も「話す言葉の内容は7%で残りの93%は顔の表情や声の質である。実際には、みなし波や仕草も大きく影響するだろう」と書かれています。言葉以外の伝達であるノンバーバル・コミュニケーションの重要性を語っています。
この本の中で私が注目したのは、「日本人は無口なおしゃべり」の項目で日本人の特徴を8つ述べています。
・「語らぬ」文化、農民の文化で仕事中に喋っている必要がないことからきているもの。
・「わからせぬ」文化、わからせようとする気持ちが少ないとされている。
・「いたわる」文化、こころや体に傷を負っている場合、その話題には最初から触れないでおこうという、暗黙の了解ができる。
・「ひかえる」文化、基本的には強い自己主張をしない。長所を語る場合も「自慢のように聞こえるかもしれませんが」と予防線を張る。
・「修める」文化、毎日反復すること。武道の修行の考え方。
・「ささやかな」文化、ささやかなものを愛している。短歌や俳句などの極端に短い短詩形文学。
・「流れる」文化、諸行無常。物事は常に変化する。そのために自己主張をする必要性を減衰させる。
・「まかせる」文化、仏教のことばでいえば、「南無」につながる。「おまかせします」
ここに書かれていることだけだと少しさみしく感じる部分もあるのだが、この中にもそれぞれ、察するということが含まれてくるところが多いです。
また患者さんにおいても多くは言葉で語らない中にも何か表現をしていることがあったりします。直接言えないことも多いと思われます。しかし「いたわる」部分で相手のことを考えてもいます。直截な指摘ではなく変化してくることこれは自己の中での変化をしてくることで、察することにつながっている部分もあるかもしれないと感じました。
日本人の特徴として書かれていますが、農耕文化の中で出てきたものであり、少しずつではありますが、変化してきている部分もあるとは考えられます。
竹内一郎 新潮新書 2005
言葉だけでは語れないものが存在します。今までいろいろな所で話を聞いています。この本も「話す言葉の内容は7%で残りの93%は顔の表情や声の質である。実際には、みなし波や仕草も大きく影響するだろう」と書かれています。言葉以外の伝達であるノンバーバル・コミュニケーションの重要性を語っています。
この本の中で私が注目したのは、「日本人は無口なおしゃべり」の項目で日本人の特徴を8つ述べています。
・「語らぬ」文化、農民の文化で仕事中に喋っている必要がないことからきているもの。
・「わからせぬ」文化、わからせようとする気持ちが少ないとされている。
・「いたわる」文化、こころや体に傷を負っている場合、その話題には最初から触れないでおこうという、暗黙の了解ができる。
・「ひかえる」文化、基本的には強い自己主張をしない。長所を語る場合も「自慢のように聞こえるかもしれませんが」と予防線を張る。
・「修める」文化、毎日反復すること。武道の修行の考え方。
・「ささやかな」文化、ささやかなものを愛している。短歌や俳句などの極端に短い短詩形文学。
・「流れる」文化、諸行無常。物事は常に変化する。そのために自己主張をする必要性を減衰させる。
・「まかせる」文化、仏教のことばでいえば、「南無」につながる。「おまかせします」
ここに書かれていることだけだと少しさみしく感じる部分もあるのだが、この中にもそれぞれ、察するということが含まれてくるところが多いです。
また患者さんにおいても多くは言葉で語らない中にも何か表現をしていることがあったりします。直接言えないことも多いと思われます。しかし「いたわる」部分で相手のことを考えてもいます。直截な指摘ではなく変化してくることこれは自己の中での変化をしてくることで、察することにつながっている部分もあるかもしれないと感じました。
日本人の特徴として書かれていますが、農耕文化の中で出てきたものであり、少しずつではありますが、変化してきている部分もあるとは考えられます。
2012年11月1日木曜日
天才と発達障害
尾崎正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)
天才と発達障害
岡南 著(講談社)
視覚優位のアントニオ・ガウディと聴覚優位のルイス・キャロル。かれらの認知の偏りが偉大なる「サクラダ・ファミリア聖堂」や「不思議な国のアリス」を生み出した。発達障害の新たな可能性を探る衝撃の書。発達障害研究の権威、杉山登志郎氏大絶賛「10年に1冊の画期的な人智科学の登場である」という本の帯に誘われ手に取った書籍です。
著者は視覚からの情報と、聴覚からの情報では同じ一つの事象であっても印象が異なり視覚が優れている人たちは、言語を覚える以前に、視覚で直接ものを見て考えることができ、自身の頭の中の映像を使って思考する人たちは、ものの名前を覚えることなく、脳裏に映像を描いて考えており、その反対に多くの皆さんは、言葉を聴覚で聴き覚え、理解し、知識として積み重ね、思考している。前者を「視覚優位」後者を「聴覚優位」という表現をしています。「視覚優位」の能力は一般に視覚記憶を生かし、土木・建築・デザイン・服飾・映像・生物学・物理学・パイロット・外科医・スポーツなどの世界に必要で思考がみな観察や空間をよりどころとしているもので、頭の中にある自前の映像で、動きやかかわり方を思考できるということは、既存の方法に頼ることができない仕事をする場合には、極めて便利なものです。視覚優位の中でも「映像思考」には大きく分けて二つの機能があり、一つは映像で記憶しそれをもとに考えること。もう一つは、映像でコミュニケーションをすることであり、反対に「聴覚優位」の人は、空間認知が苦手ですが、路襲性を必要とする学習や語学などは、聴覚からの記憶の良さが手伝い、たいへん優れています。聴覚優位な能力は、語学関係、音楽関係、俳優、小説家などの世界に必要なものだと述べています。
第二章ではアントニオ・ガウディ「四次元の世界」、第三章ではルイス・キャロルが生きた「不思議の世界」を述べています。詳細は興味のある方は読んで頂くとして、相貌失認の人の見え方、キャロルの相貌失認について、アスペルガー症候群、キャロルの吃音障害など様々な障害の中で素晴らしい作品が生まれていることがわかります。
ガウディは言っています。「私が出来の悪い学生だったのではなく、悪かったのは私に合った教授がいなかったということだ。その証拠に、型通り学校を出た建築家たちがなしたことと私のなしたこととを比較すれば、私の方に軍配が上がるだろう。」また、芸術については「芸術に師はない。唯一の師は自分自身である。あるのは芸術を学ぶ方法である。それ故、養成機関は、作品を直接見せるか、あるいは、(雑誌などの)図版によって、範例とその知識の便宜を計るのだ。・・・ただし、学校も美術サークルも雑誌にしても、芸術を学ぶための補助にすぎない。」あくまでも、ガウディは自分の目で学ぶことを求めています。
著者は映像思考であり、本を長い時間集中して読み続けることが難しく言語のままの蓄積も苦手だそうです。読んだものを一旦映像に交換し理解をしたところで、今度はノートに手書きをし、自分の手でかかないとその後に言語表現は難しく、例えば読んだ本の内容を、ノートパソコンに打ち込んだ場合、自身の視覚でモニターを見ても、後で文章として使えるような記憶にならないそうです。書く作業は、筋肉の動きが記憶の助けになり、そのように手間をかけて理解をしても、そのうち言語は消え、映像での理解が出来なくなってしまうそうです。映像で長期保存をしている内容を、あらためて言語で表現しようとすると、今度は言語を一から組み立てていくような大変さにみまわれ、どうしても時間がかかるそうです。
この書籍の「刊行に向けて」の中で国立成育医療研究センターの宮尾益知さんは発達障害の子供たちにはどのような未来があるのだろうか、と考えを巡らせ、発達障害として語られている著明なモーツアルト、エジソン、チャーチル、アインシュタイン、グレングールド、チャールズ・ダーウィンなど、才能ある人たちの作品や当時のエピソードから診断できれば、発達障害の子供たちへの希望の星になるのではないかという思いを抱き、認知の面から人の特性をとらえていくことは、発達障害と言われる人々の個人の能力をいかに伸ばし、どう開花させればよいのか、「障害から才能へ」と導く指針となるでしょう。と述べています。
患者の身体と精神を理解し仮説を立て検証していく中で、気づいていないことや理解していないことがあると、病態に対し的確な治療とかけ離れてしまった治療をしてしまう危険性があることをこの書籍を通じ理解することができました。ガウディの「私に合った教授がいなかったというだけだ」という言葉をリハビリテーションの世界に置き換えると機能回復ができなかったのは「私に合ったセラピストがいなかったからだ」と言われているような気もちになり、改めて治療を行う上で患者を理解することの重要性を感じさせて頂きました。
天才と発達障害
岡南 著(講談社)
視覚優位のアントニオ・ガウディと聴覚優位のルイス・キャロル。かれらの認知の偏りが偉大なる「サクラダ・ファミリア聖堂」や「不思議な国のアリス」を生み出した。発達障害の新たな可能性を探る衝撃の書。発達障害研究の権威、杉山登志郎氏大絶賛「10年に1冊の画期的な人智科学の登場である」という本の帯に誘われ手に取った書籍です。
著者は視覚からの情報と、聴覚からの情報では同じ一つの事象であっても印象が異なり視覚が優れている人たちは、言語を覚える以前に、視覚で直接ものを見て考えることができ、自身の頭の中の映像を使って思考する人たちは、ものの名前を覚えることなく、脳裏に映像を描いて考えており、その反対に多くの皆さんは、言葉を聴覚で聴き覚え、理解し、知識として積み重ね、思考している。前者を「視覚優位」後者を「聴覚優位」という表現をしています。「視覚優位」の能力は一般に視覚記憶を生かし、土木・建築・デザイン・服飾・映像・生物学・物理学・パイロット・外科医・スポーツなどの世界に必要で思考がみな観察や空間をよりどころとしているもので、頭の中にある自前の映像で、動きやかかわり方を思考できるということは、既存の方法に頼ることができない仕事をする場合には、極めて便利なものです。視覚優位の中でも「映像思考」には大きく分けて二つの機能があり、一つは映像で記憶しそれをもとに考えること。もう一つは、映像でコミュニケーションをすることであり、反対に「聴覚優位」の人は、空間認知が苦手ですが、路襲性を必要とする学習や語学などは、聴覚からの記憶の良さが手伝い、たいへん優れています。聴覚優位な能力は、語学関係、音楽関係、俳優、小説家などの世界に必要なものだと述べています。
第二章ではアントニオ・ガウディ「四次元の世界」、第三章ではルイス・キャロルが生きた「不思議の世界」を述べています。詳細は興味のある方は読んで頂くとして、相貌失認の人の見え方、キャロルの相貌失認について、アスペルガー症候群、キャロルの吃音障害など様々な障害の中で素晴らしい作品が生まれていることがわかります。
ガウディは言っています。「私が出来の悪い学生だったのではなく、悪かったのは私に合った教授がいなかったということだ。その証拠に、型通り学校を出た建築家たちがなしたことと私のなしたこととを比較すれば、私の方に軍配が上がるだろう。」また、芸術については「芸術に師はない。唯一の師は自分自身である。あるのは芸術を学ぶ方法である。それ故、養成機関は、作品を直接見せるか、あるいは、(雑誌などの)図版によって、範例とその知識の便宜を計るのだ。・・・ただし、学校も美術サークルも雑誌にしても、芸術を学ぶための補助にすぎない。」あくまでも、ガウディは自分の目で学ぶことを求めています。
著者は映像思考であり、本を長い時間集中して読み続けることが難しく言語のままの蓄積も苦手だそうです。読んだものを一旦映像に交換し理解をしたところで、今度はノートに手書きをし、自分の手でかかないとその後に言語表現は難しく、例えば読んだ本の内容を、ノートパソコンに打ち込んだ場合、自身の視覚でモニターを見ても、後で文章として使えるような記憶にならないそうです。書く作業は、筋肉の動きが記憶の助けになり、そのように手間をかけて理解をしても、そのうち言語は消え、映像での理解が出来なくなってしまうそうです。映像で長期保存をしている内容を、あらためて言語で表現しようとすると、今度は言語を一から組み立てていくような大変さにみまわれ、どうしても時間がかかるそうです。
この書籍の「刊行に向けて」の中で国立成育医療研究センターの宮尾益知さんは発達障害の子供たちにはどのような未来があるのだろうか、と考えを巡らせ、発達障害として語られている著明なモーツアルト、エジソン、チャーチル、アインシュタイン、グレングールド、チャールズ・ダーウィンなど、才能ある人たちの作品や当時のエピソードから診断できれば、発達障害の子供たちへの希望の星になるのではないかという思いを抱き、認知の面から人の特性をとらえていくことは、発達障害と言われる人々の個人の能力をいかに伸ばし、どう開花させればよいのか、「障害から才能へ」と導く指針となるでしょう。と述べています。
患者の身体と精神を理解し仮説を立て検証していく中で、気づいていないことや理解していないことがあると、病態に対し的確な治療とかけ離れてしまった治療をしてしまう危険性があることをこの書籍を通じ理解することができました。ガウディの「私に合った教授がいなかったというだけだ」という言葉をリハビリテーションの世界に置き換えると機能回復ができなかったのは「私に合ったセラピストがいなかったからだ」と言われているような気もちになり、改めて治療を行う上で患者を理解することの重要性を感じさせて頂きました。
