2015年5月1日金曜日

「すべては光る」から

井内 勲(岡崎共立病院)

すべては光る 光る 光る すべては 光る 
光らないものは ひとつとしてない 
みずから 光らないものは 
他から 光を受けて 光る 

これは、子供が通う小学校の石碑に刻まれている銘文である。

坂村真民という詩人の作品で、数多くの癒しの名言を残し多くの人に慕われた方らしい。

恥ずかしながら、自分は不勉強で存じ上げなかった。

名歌は色々な形で読んだ人の心に浸透していくと思う、その時々の立場や環境、心理状態などによって様々な捉え方が各々にあるのではないか。そして、それはまた一度立ち上がったら永続するわけでもなく、時間が経過すると、自らの経験を背景にまた違った形で内省される事も多い。

今の自分は、「みずから 光らないものは 他から 光を受けて光る」の部分がとても印象的であり、色々なことをここから感じ取れる。

皆さんはいかがでしょう。

2015年4月16日木曜日

仮説の立てるための知識について(2)

若月 勇輝(西尾病院)

前回の私の臨床のヒントの続きを述べたいと思う。前回の内容は仮説を立てるための知識の重要性とその知識収集方法について記載した。
その収集方法は、
・ある分野の権威の論文を読む
・権威が使用している参考文献を読む
・頻繁に用いられる論文を読む
・レベルの高いであろう学会誌の論文を読む
・レベルの高いであろう学会誌の査読者の論文を読む
である。この方法には問題点がある。それは、論文の執筆者、学会誌に依存した方法であるということである。つまり上記以外の方法で収集した情報は知識とならないことを意味している。

しかしながら、知識の収集方法は上記の他にも存在する。それを下記に示す。
・権威以外が書いた論文
・自分がレベルの高いと思う以外の学会誌
・書籍(教科書や文庫など)
・臨床家自身の経験やアイデア
・他のセラピストとのディスカッションから得た知識
である。これらから知識を収集する際には注意しなければならない点がいくつかと思われる。その知識が確からしいかどうか判断する必要があるからである。

論文を読む際には、実験方法が適切かどうか、分析(統計的な分析も含める)が適切かどうか、結果から適切に自分が解釈できるかが重要となる。

教科書や文庫では、どのような経歴の人の意見か、著者はどのような研究をしているのか、現在どのような活動をしているのか(学会の所属や勤務先)、引用している論文が適切かどうか、著者の意見が飛躍しすぎていないか。

臨床家自身のアイデアと他のセラピストとのディスカッションから得た知識は、臨床で適切な方法で適切な分析から検証したのかを判断する能力が必要となる。
結果として、これらの方法に共通する点は、知識を得る者が、適切な方法で適切な分析から検証できる能力が必要になるということである。

この能力を定着させていくためには、自分で研究的な営みをすることが重要と考える。よって、学会への投稿や論文を書くことによって、査読者による批判を受ける必要があると思われる。

私はまだまだ学会レベルであり、論文を書いたこともない。自分の仮説を立てるための知識の収集方法を磨く必要性があり、今後も研究活動を継続していきたいと思っている。それによって、レベルの高い知識を得ることになり、より洗練された仮説を生み出せるようになるのではないかと考えている。

2015年3月31日火曜日

理想の自分を追いかけて

進藤 隆治(岡崎共立病院)

外を歩いていると、最近は少し汗が出てくるようになり暖かくなっているのを実感します。そして、桜の開花とともに清々しい気分になります。

皆さんは今年度、どのような目標を立てていますか?

私はというと、「考えや意見を他人にわかりやすく伝える事」を目標にしたいと思っています。今までは「とりあえず意見を言う」といった、一方向でしかも自分を主に発言していただけでしたが、これからは相手の意見も傾聴し、理解をしながらも自分の意見を含め、共有できる情報を作っていく、そういった関わりを意識していきたいと考えています。
実現に向けてはじめに、自分はOTなので、特にOTの先生との繋がりの中での関わり作っていきたいと思いました。たまたまですが県OT学会の一般演題に応募して発表が決まりました。まずはそこでわかりやすい発表と適確な質疑応答ができるように準備していきます。

また、院内では脳科学や神経生理学の知見を臨床と繋げる内容やヘルスケアサービスについての自分なりに勉強した事を、自分の意図が伝わりやすいように発表できたらなと考えています。

当研究会の勉強会では、自分は今年度のコーディネートはないですが、発表する機会は作れると思うので、良いテーマが挙がった際には積極的にいけたらいいなと考えています。

これらを遂行する為の私の今の武器と言えば、池上彰さんや齋藤孝さんの著書やプレゼンテーションzenがあります。認知神経リハビリテーションの知見とコミュニケーション術を組み合わせて、今までの発表より、よいものを作っていきたいと思います。

と言いつつも、今考えていることが全てできるかはわかりません。(自信なしです)

しかし、理想の自分を追いかけて、新年度が充実した年になるようにしていきたいです。

皆さんはどういった目標を挙げていますか?

この時期は、目標を立ててスタートをするには絶好のタイミングだと思います。より良い年にする為にも目標を持って一年に望みたいです。

2015年3月15日日曜日

心構え

首藤 康聡(岡崎南病院)

先日、家族でスキーに行ってきました。最近は息子も一人で滑るようになり、今回はキッカー(ジャンプ台)やボックス(コース内に設置されたアイテム)に挑戦するようになってきました。まあそうなったら当然の流れで父親の威厳を見せるためにこっちも負けじと挑戦しました。

まあそんな簡単に上手くいくわけがないので動画をとって自分で視覚分析、同業者の妻に動作分析をしてもらったりしていました。もちろん自分の体性感覚へ注意を向けてみたり、運動イメージの想起を行ってみたりと色々と試してみたのですがなかなか上手くジャンプできません。

どうしてなんだろうと悩んでみても答えが出てきません。そこで悩んでる時こそ基礎を思い出そう。そう思って思い出してみたのがAnokhinの行為のスキーマ。で、考えてみると求心性情報の部分では様々な体性感覚情報やその行為を行う際の社会性なども含めて考えて行為の形成を考えていきますが、もちろんここには感情も含まれます。つまり、行為を行う前の感情がその後の行為の結果に影響を及ぼすわけです。

そこで、どんな感情が行為を行う前には必要なのか考えてみようと思い、まずは今自分自身がジャンプをしようと準備をした際の感情がどんなものか確認をしてみたところ、転倒することへの恐怖心を持ちつつ滑ろうとしていました。ひょっとしたら恐怖から変に緊張しているかもな~じゃあジャンプが決まったら気持ちいいんじゃないか、それって楽しそう!そう考えたら上手くいくんじゃないかなんて凄く安易な考えで滑ってみたら成功!まあお世辞にも上手とはいえませんが・・・

さて運動の学習には感情(本来は情動というべきかな?)が大切です。ただそれは成功体験によるものだけではなく、今から課題に向かおうとする感情の持ち方は結果に影響を与えます。やる気が無いことってなかなか学習しませんよね。それと一緒。さて、皆さんの担当されている患者さんは課題にどのように向き合っていこうとしていますか?そこをちょっと聞いてみて、少し声かけを変えてみると案外上手くいくかもしれませんよ。

2015年3月1日日曜日

ワーキングメモリ

佐藤 郁江(岡崎南病院)

多感覚統合の話が出てきて、私が気になっていたのがこのワーキングメモリです。多感覚統合は認知神経リハビリテーションの中で話題になっている項目です。その話を聴いたとき、ワーキングメモリを再び見ていたのもあり、共通点を感じています。

Baddelyはワーキングメモリを視空間スケッチパット、エピソードバッファ、音韻ループが存在し中央実行系でそれぞれに情報の割つけを行い注意の容量の限界の範囲内で作業を行えるようにしています。私が理解している多感覚統合は運動するにあたって必要な情報をそれぞれの感覚を統合するために必要と理解しています。私が感じた共通点は関わりが作られているといった共通点があります。そして、ワーキングメモリは視覚的意味、エピソード長期記憶、言語がそれぞれ働きあって、視空間スケッチパット、エピソードバッファ、音韻ループと関わりあっているような図が使われています。この中のエピソード長期記憶とエピソードバッファの関係が過去との比較を常に行っているという風にも解釈ができています。

これは私が自分の知っている知識で勝手に解釈をしている部分で正しいとは限りません。しかし何かを理解するに分けて考えることも必要なのですが、関係つけることで理解ができて整理できるといったこともあるように思います。患者さんに情報のみをあたえ過ぎないようにも注意しなければとも思いました。

2015年2月17日火曜日

リハビリ新聞記事について

尾﨑 正典(尾張温泉かにえ病院)  

最近、新聞に掲載されているリハビリに関する記事を読むと、どうも、現場にいるセラピストと患者との思いとは、かけ離れているように感じるのは私だけであろうか?

2014年11月8日の朝日新聞「買い物・畑仕事・・・・実践リハビリ」の中で、一部施設が取り組む先進的なリハビリは、まず暮らしの中でもう一度してみたいことを高齢者自身から聞く。医師や介護職員らと一緒に実現に向けた計画をたてる。「買い物をしたい」という人なら、単に足の筋力向上だけでなく、店でカートを押して歩く。陳列棚の配置を覚える、など実際の動きや手順にあわせた訓練もする。「畑仕事」が希望なら、低い台からの立ち上がり練習や屋外での歩行に加え、除草動作の反復練習をしてもらう。と書かれている。皆さんどう思われますか?患者の真の希望は、そう言った何かの動作がしたいということなのでしょうか?もう一度してみたいことを高齢者自身から聞くと書かれていますが、その方自身から聴くと言うのは重要なことですが、その動作が身体動作的にできるのであれば、もうすでに、やっているのではないでしょうか?その希望の動作が出来ない根本的な理由が一人一人あるはずです。

ある担当患者が、以前言われました、「動作の訓練はしなくていい、動かない身体を動くようにしてくれ、そうすれば、色々な動作ができるから」と。この言葉の捉え方は人それぞれあると思いますが、私はこの言葉こそ、障がいを持たれた方の真の願いなのではないかと思います。

2015年2月14日中日新聞「遠隔治療リハビリ提案」という記事には、「現在は慢性疾患の治療などに限定されている遠隔診療の対象をリハビリにも拡大。病院にいる医師と在宅の患者が映像や音声でやりとりし、医師が脈拍や呼吸などの情報を把握しながら、適切な診察や指導ができるようにする。その際、人型のロボットを使って、リハビリの具体的な動きなどを指導する。」と書かれている。ロボット技術が日進月歩で発展してきているのは、十分理解していますが、私たちが行っているリハビリテーションがはたして、人間ではなく、ロボットにできるのであろうか?少子高齢化で将来、人口が減少し、労働人口が減少していくから何とかしていかなければ、という政治的な考えを含んでの意味なのかもしれないし、そのようにロボットができるように技術を発展させていくという科学技術の発展を想定してのことであるかもしれない。様々な技術が人類のために発展していくことはうれしいことであるが、まだ、脳という身体の一部でさえ、すべて解明されておらず、人間が人間を治療するのも難解であるのに、人間が造るロボットが人間を治療できるのか?

安易な考えではないのか?と思ってしまったのは私だけであろうか?目に見えない心の世界との関わり、人間関係、家族関係、環境、経済、社会制度など、様々な情報をリハビリテーション治療の中でセラピストは考慮しながら治療を行っているのである。しかし、未来は誰にもわからない、そのような時代がすぐに来るのか、何十年、何百年かかるのかは分からない。

私たち、セラピストが行うリハビリテーションが新聞記事のように理解されているという事実があり、行政として動いている現実があることは理解しないといけない。

私たち、リハビリテーション専門家は、患者の真の願いに答えるため、さらなる学習を継続して行かなければならない。

現場にいて患者と直接向き合っているリハビリテーション専門家の立場で言わせて頂くと、人間のリハビリテーションは簡単なものではない。難しい。しかし、決して諦めてはいけない。諦める、諦めないを決めるのは医療者ではなく、最終的には患者自身である。

2015年2月1日日曜日

死生観について

荻野 敏(国府病院)

先日、久しぶりに所属する病院の院内勉強会で講義をする機会を得た。タイトルは「死生観について」。所属する病院では接遇委員会に属しており、様々な点から接遇を考えている。最近は、知・情・意から職業人としての自覚を持ち、研鑽していこうという観点から接遇委員会が院内勉強会の内容などを考えている。そして今年の一発目が「死生観について」だった。

自分が死ぬ。そのことを意識したことがあるだろうか?

そしてどうやって死ぬのが理想だろうか?

死を単に医学から見るのではなく、哲学や社会学などの領域から掘り下げてみた。皆さんはいったいいつの時点が死んだことになると思うだろうか?

普通は、心臓が止まり瞳孔が散瞳して・・・、というのが死だと考えるだろう。でも社会学的に心理学的に哲学的にそれを死とは言い切れない。

養老孟司さんは「一人称の死体」「二人称の死体」「三人称の死体」という概念を取り上げている。ジャンレケビッチの「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」とよく似ているが、「二人称の死体」とは「死体でない死体」だそうだ。つまり死体には見えないのだと。われわれの肉親や仲のよかった友人知人が亡くなって死体としてそこにいても、それは死体には見えず、「その人」そのものであることに変わりはないと。確かにそうだ。そうすると「あいつは俺たちの心の中に生きている」っといった言葉はまさに社会学的・心理学的・哲学的な死ではない。

死は、誰にでも必ず訪れる。人は致死率100%。そしてその死に様は生き様の集大成として現れる。放蕩ばかりしていた人の生き様とその死に様。家族に愛されて生きてきた人の生き様とその死に様。どちらがよい死に方になるのだろうか。少し考えればわかるだろう。とすると、生きることは死ぬことだし、死ぬことは生きることだ。

そして、事故死や突然死は死の準備をする時間もなく、突然やってくる。反対に癌などの疾患なら死の準備ができる。残された時間を有意義に使うことができると考えることもできる。

死ぬことは生きることであり、生きることは認知することだ。

死生観を考えることによって、生きることを見つめなおすことができ、環境と相対しながらまさに環境の中で生きている患者に向かい合うことができるような気がした。

しかし、今日もまた、悲痛なニュースが世界を駆け巡る。

あまりにも悲しい。