林 節也(岡崎共立病院)
動作模倣における知覚と運動の変換過程に関する文献研究-理論の動向と今後の課題-
筆者:水口 崇・出口 利定
機関名:東京学芸大学紀要1部門 56 pp.149-159,2005
高次脳機能障害の一つである失行の勉強を進めていくと、知覚と運動の変換過程についての勉強することになると思います。失行とは「学習された意図的な運動を遂行できない状態」と定義され、評価の中には物品ありと物品なしとで、敬礼やじゃんけんのチョキ・金づちの使用などをセラピストが指示を出し運動表出させたりセラピストの模倣をさせたりして、患者の誤反応を評価します。訓練では一般的には自然な場面で動作訓練や刺激促通法があげられることがあります。
しかし、こういった訓練では、外部観察上見られる行為の部分へのアプローチが主流のように思えます。決して否定をしているわけではありませんが、なぜ模倣ができないのか?物品の使用がなぜ出来ないのか?を考えて文献を読んでも、答えが見つかりませんでした。そこで、認知神経リハビリテーションの高次脳機能障害の勉強を進めていくと、解読・変換・産生という言葉を聞き、なぜ模倣ができないのか?物品使用障害が出現しているのか?の答えが見つかったように思いました。
この文献は、動作模倣と音声模倣における知覚と運動の変換過程について4種類の理論(Direct Mapping Theory・Active Intermodal Mapping Theory・Goal Directed Theory・Dual Route Theory)を提示し、それぞれを詳細に紹介しています。細かい内容は直接文献を読んで頂いたほうがわかりやすいので割愛させて頂きますが、新生児模倣や記憶・表象の関係。ミラーニューロンは知覚と運動が直接変換しているなど幅広い情報が記載されいます。また、今後の課題では、動作模倣と音声模倣の処理機構についての共通性を明らかにする必要性があると記載されています。
高次脳機能障害は運動麻痺や関節可動域障害とは違い目に見えにくい障害です。我々セラピストは、模倣における処理機構を学ぶことで、失行患者に対するアプローチを再度見直し、患者と関わっていかなければいけません。
2012年2月17日金曜日
2012年2月1日水曜日
養老流 子育て論
進藤 隆治(国府病院)
So Da Tsu com より 新しい生命へ 養老流 子育て論
私事であるが、昨年子どもができました。仕事と育児に日々精進して過ごしているわけですが、そんな中ネットで養老孟司先生の育児論が書かれた文章を見つけました。
養老先生は、子どもは自然の世界であり、自然の世界に属している子どもを人間の世界へひきこんでいくという過程が子育てであると考えています。これは子どもが人間社会に適応していく術を教えることが育児であると解釈できると思います。そして養老先生は「ああすれば、こうなる」という考え方は自然相手に通用しないと言っていました。ここでいう自然とは人間が設計することができないという意味だそうです。自然とは子どものことだけでなく人間全体に言えることであり、もちろん私たちが関わっているリハビリ対象者の方々にも当てはまることです。
ここではリハビリについて話しはしていませんが、リハビリの治療においても「ああすれば、こうなる」は通用しない場面がただあることを私達は経験します。ただ「ああすれば、こうなる」を通用させようとしてしまう風景があるように思います。例えばこの患者にはこのやり方が合っている、色々な考え方を知ってその中からその患者に合う手技を選択すればよいという考え方がそうだと思います。それが悪いわけではないでしょうが、私自身はそのやり方はよいとは思いません。人間を自然と解釈すれば「ああすれば、こうなるのではないか?」といった仮説-検証のスタイルで、手入れのように試行錯誤しながら進めていくことが重要だと思います。セラピストは人間が作り上げた物を設計図を見て直す技術者ではなく、人間という者に環境との関わり方を教える教育者であることを忘れてはならないと思いました。
余談ですが、最後に面白い調査のことが書いてありました。それは夫に対する妻の愛情と、妻に対する夫の愛情をチェックした調査です。新婚のスコアを100として、その後の点数をつけていきます。5年、10年、15年経つと、どのように変化していくかを見たものです。それには次のような結果がでていました。夫の愛情は波こそあれ平均すると横ばいになるが、妻の愛情はきれいに右肩下がりであるというのです。その理由として一番はっきりしていることは「育児の責任」だそうです。育児の責任とは、オムツを替えるとか家事をするとかそういうことではありません。子ども世話を妻に押し付けっぱなしで息抜きできない状態にさせてしまったり、育児に対して無責任だと思わせる発言をしてしまうことだそうです。そういったことで愛情が下がるとおっしゃっていました。
う~ん、何だか複雑な気分になりました・・・
So Da Tsu com より 新しい生命へ 養老流 子育て論
私事であるが、昨年子どもができました。仕事と育児に日々精進して過ごしているわけですが、そんな中ネットで養老孟司先生の育児論が書かれた文章を見つけました。
養老先生は、子どもは自然の世界であり、自然の世界に属している子どもを人間の世界へひきこんでいくという過程が子育てであると考えています。これは子どもが人間社会に適応していく術を教えることが育児であると解釈できると思います。そして養老先生は「ああすれば、こうなる」という考え方は自然相手に通用しないと言っていました。ここでいう自然とは人間が設計することができないという意味だそうです。自然とは子どものことだけでなく人間全体に言えることであり、もちろん私たちが関わっているリハビリ対象者の方々にも当てはまることです。
ここではリハビリについて話しはしていませんが、リハビリの治療においても「ああすれば、こうなる」は通用しない場面がただあることを私達は経験します。ただ「ああすれば、こうなる」を通用させようとしてしまう風景があるように思います。例えばこの患者にはこのやり方が合っている、色々な考え方を知ってその中からその患者に合う手技を選択すればよいという考え方がそうだと思います。それが悪いわけではないでしょうが、私自身はそのやり方はよいとは思いません。人間を自然と解釈すれば「ああすれば、こうなるのではないか?」といった仮説-検証のスタイルで、手入れのように試行錯誤しながら進めていくことが重要だと思います。セラピストは人間が作り上げた物を設計図を見て直す技術者ではなく、人間という者に環境との関わり方を教える教育者であることを忘れてはならないと思いました。
余談ですが、最後に面白い調査のことが書いてありました。それは夫に対する妻の愛情と、妻に対する夫の愛情をチェックした調査です。新婚のスコアを100として、その後の点数をつけていきます。5年、10年、15年経つと、どのように変化していくかを見たものです。それには次のような結果がでていました。夫の愛情は波こそあれ平均すると横ばいになるが、妻の愛情はきれいに右肩下がりであるというのです。その理由として一番はっきりしていることは「育児の責任」だそうです。育児の責任とは、オムツを替えるとか家事をするとかそういうことではありません。子ども世話を妻に押し付けっぱなしで息抜きできない状態にさせてしまったり、育児に対して無責任だと思わせる発言をしてしまうことだそうです。そういったことで愛情が下がるとおっしゃっていました。
う~ん、何だか複雑な気分になりました・・・
2012年1月15日日曜日
ソーシャルブレインズ
首藤 康聡(岡崎南病院)
ソーシャルブレインズ -自己と他者を認知する脳-
開一夫/長谷川寿一(著) 東京大学出版会
自己や他者の認識はリハビリテーションにとって重要な1つの要因です。リハビリテーションで自己とは時として患者さんでありセラピストであるし、他者とは時として患者さんであり、セラピストです。その時その時の文脈によって、自己と他者がめまぐるしく入れ替わり、場合によっては一人の人間の中に同期する事だってあるかもしれません。或いは明確に2者を分ける事はできないのかもしれません。
正直よく分かりませんが、しかし、ここで明らかになっている事があります。それは、少なくとも2人以上の人間が存在し、そこには「社会」が存在するという事です。リハビリテーションが1つの社会を形成するのであれば「ソーシャルブレイン(社会脳)」を勉強して行く必要があるとは思いませんか?
この書籍は社会の基本的構成要素の「自己」と「他者」に焦点を当てて書かれており、その情報源は進化・比較認知科学、発達心理学や脳機能イメージング、さらにはロボット工学の分野からも考察が書かれています。僕自身、今までロボット工学が自己や他者の理解にどう繋がってくるのか疑問視していましたが、この書籍を読む事で少しその意味がわかった気がします。さらに、心の理論や自閉症についても触れられており、小児リハビリテーションへの理解も深まると思います。また、本書の中に散りばめられた“ topic”や“keyword”も十分楽しめると内容です。
さて、余談ですがこの書籍の執筆に当たった先生方の研究会に参加させていただいた事があるんですが、その時のディスカッションが衝撃的で今でも鮮明に覚えています。レベルが高いのはもちろんなんですが、皆さんが徹底的に意見をぶつけ合うんです。でもいったん休憩にはいると和やかに談笑されていたんです。リハビリテーションの勉強会に参加しているとその様な場面に遭遇する事はあまりない気がします。でも、必要な事だと思いませんか?
ソーシャルブレインズ -自己と他者を認知する脳-
開一夫/長谷川寿一(著) 東京大学出版会
自己や他者の認識はリハビリテーションにとって重要な1つの要因です。リハビリテーションで自己とは時として患者さんでありセラピストであるし、他者とは時として患者さんであり、セラピストです。その時その時の文脈によって、自己と他者がめまぐるしく入れ替わり、場合によっては一人の人間の中に同期する事だってあるかもしれません。或いは明確に2者を分ける事はできないのかもしれません。
正直よく分かりませんが、しかし、ここで明らかになっている事があります。それは、少なくとも2人以上の人間が存在し、そこには「社会」が存在するという事です。リハビリテーションが1つの社会を形成するのであれば「ソーシャルブレイン(社会脳)」を勉強して行く必要があるとは思いませんか?
この書籍は社会の基本的構成要素の「自己」と「他者」に焦点を当てて書かれており、その情報源は進化・比較認知科学、発達心理学や脳機能イメージング、さらにはロボット工学の分野からも考察が書かれています。僕自身、今までロボット工学が自己や他者の理解にどう繋がってくるのか疑問視していましたが、この書籍を読む事で少しその意味がわかった気がします。さらに、心の理論や自閉症についても触れられており、小児リハビリテーションへの理解も深まると思います。また、本書の中に散りばめられた“ topic”や“keyword”も十分楽しめると内容です。
さて、余談ですがこの書籍の執筆に当たった先生方の研究会に参加させていただいた事があるんですが、その時のディスカッションが衝撃的で今でも鮮明に覚えています。レベルが高いのはもちろんなんですが、皆さんが徹底的に意見をぶつけ合うんです。でもいったん休憩にはいると和やかに談笑されていたんです。リハビリテーションの勉強会に参加しているとその様な場面に遭遇する事はあまりない気がします。でも、必要な事だと思いませんか?
2011年12月17日土曜日
「わかる」とはどういうことか
佐藤 郁江(岡崎南病院)
「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学
山鳥重(ちくま新書)
半分寝ながらだったかテレビを見ていたとき「直感」という言葉に引っかかって少し目が覚めました。その時のテレビは爆笑問題のニッポンの教養でした。話の内容としては危機を感じて逃げ出した消防士の内容で視覚情報における情報処理過程として意識できない上丘での視覚の存在の説明でした。私はこの脳科学分野は弱いと思い聞いていた。後で少し詳しく調べてみると視覚情報が直接上丘に入るほかに、聴覚の情報、前庭器官から頭の位置情報、視覚皮質ですでに処理された情報も入るとなっている。ここでテレビの話に戻りますが、逃げ出した消防士も危険を無意識のうちに感じていたのであろうと、それが直感であり、第六感でこの上丘での処理が早く働いたのではと説明していました。そして、これは過去の経験(視覚皮質で処理された情報:ここは後で私が加えた内容です)からもとにして作られているものだと説明していました。また、私は直感と聞いてまず思い出したのが『「わかる」とはどういうことか』(山鳥重)の「直感的にわかる」でした。その中で「その作り出す筋道が自発的な心理過程に任されていて、意識的にその過程が追いかけられないとき、われわれはほかに表現のしようがないので、直感的にわかった、という表現を使うのです」と書かれており、つながる部分を持つことができました。そしてその直感的にわかるで「答えは外にも中にもないのです。ちゃんと自分で作り出すのです」とあり改めて自分の中で行動における決定し、直感につながる経験をしていかなければと感じました。もちろん患者さんにもどのような経験が必要なのか?それを後で引き出せるような経験をしてもらうためにはどうしたらよいのかを考えている必要があると感じました。
「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学
山鳥重(ちくま新書)
半分寝ながらだったかテレビを見ていたとき「直感」という言葉に引っかかって少し目が覚めました。その時のテレビは爆笑問題のニッポンの教養でした。話の内容としては危機を感じて逃げ出した消防士の内容で視覚情報における情報処理過程として意識できない上丘での視覚の存在の説明でした。私はこの脳科学分野は弱いと思い聞いていた。後で少し詳しく調べてみると視覚情報が直接上丘に入るほかに、聴覚の情報、前庭器官から頭の位置情報、視覚皮質ですでに処理された情報も入るとなっている。ここでテレビの話に戻りますが、逃げ出した消防士も危険を無意識のうちに感じていたのであろうと、それが直感であり、第六感でこの上丘での処理が早く働いたのではと説明していました。そして、これは過去の経験(視覚皮質で処理された情報:ここは後で私が加えた内容です)からもとにして作られているものだと説明していました。また、私は直感と聞いてまず思い出したのが『「わかる」とはどういうことか』(山鳥重)の「直感的にわかる」でした。その中で「その作り出す筋道が自発的な心理過程に任されていて、意識的にその過程が追いかけられないとき、われわれはほかに表現のしようがないので、直感的にわかった、という表現を使うのです」と書かれており、つながる部分を持つことができました。そしてその直感的にわかるで「答えは外にも中にもないのです。ちゃんと自分で作り出すのです」とあり改めて自分の中で行動における決定し、直感につながる経験をしていかなければと感じました。もちろん患者さんにもどのような経験が必要なのか?それを後で引き出せるような経験をしてもらうためにはどうしたらよいのかを考えている必要があると感じました。
2011年12月1日木曜日
脳活体育
尾﨑正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)
「脳活体育」
運動が好きになる! 得意になる! 知性を育む
出版社:スキージャーナル
「脱・運動オンチ!運動スキル獲得の脳メカニズム」という題で柳原大(東京大学大学院准教授)はQ1からQ17の質問形式で述べている。
「運動オンチ」久々に私の脳の中を走った単語であった。この本の中では運動オンチの定義を「脳の中にある運動プログラムやモデルの生成と修正をめぐるメカニズムの不具合」「自分や他人の動作に伴う多様な感覚を正しく認識することができない」と述べられており、運動能力が向上するには、一流のアスリートの動きと自分とを比べたとき、その違いを正しく認識できるか、または自分が動く中で起きている誤りについて認識できているかに関わってくると准教授は述べている。小脳機能、ミラーニューロン、学習メカニズムの形成、情動など分かり易く述べられており、知識の再確認、整理を行うことができた。
次に「脳から見た効率的運動学習法」という題で篠原菊紀(諏訪東京理科大学教授)が述べている。印象的であったのが「心をこめてやりなさい」という言葉であった。心をこめることで、前頭前野を中心に脳内で活性化が起き、心を配った分、最初は動作に手間がかかりますが、結果早く獲得されると述べています。意識・無意識については「意識の占める割合はとても小さい。大海原に浮く一艘の舟が意識で、舟をうまく使うと海流を変えられることはあるという感じです。したがって、意識的には新たな動きをやろうと思っても、うまくいかないのが普通です。意図的に変えようと思っても動きはそう簡単に変えられない。努力はしつつも、なすがままにするしかない場合が多いし、そちらの方が当たり前なのです。ちょっと意識を使って無意識の変化を待てば比較的早くうまくいく。これがコツです」と述べる。使っている筋肉を意識しながら筋トレをした場合と意識せず筋トレをした場合では脳の活性化のレベルが違い、意識しての筋トレの方が活性化しているデーターを図を用いて表している。以前スピードスケート長野オリンピック、金メダリストの清水宏保さんは常にトレーニング中どこの筋肉を使っているのかを意識しながら行い「脳が疲れる」ということが「神の身体」という本の中に書かれていたことを思い出した。意識を向ける、向けないだけで同じ運動を行うのに脳の活性化が違うことが科学的に証明されていた。私たちセラピストはこの知見を利用し治療に取り入れなければいけない。治療を行う際には意識を向けるように指示する必要がある。限られた治療時間の中で、いかに効率的に時間を利用しなおかつ、結果をだすかに臨床家は取り組まなければならない。
「運動が知性を育む!才能を開く!先端トレーニング コオーディネーショントレーニング」荒木秀夫(徳島大学大学院教授)は現在、学校や地域のクラブチームで用いられるようになっているトレーニング方法は「コーディネーション」といわれており1970年代に旧東ドイツでつくられた運動理論をもとにしているが荒木教授は「コオーデション・トレーニング」という人の本来もっている能力に着目するということであり、部分的な能力の特化を目指さない。全人的な能力開発を目指す。このコオーディネーショントレーニングを北京オリンピック4×100mリレーで日本トラック史上男子初となる銅メダルを獲得した朝原宣治氏も取り入れている。荒木教授は今までとは異なる理論で結果を出そうとしている。この本の中では健常者の運動能力向上を中心に述べられており、脳の治療という視点で書かれた本ではないが基礎知識の整理、スポーツの世界でも全体性を考慮した理論が存在し展開されていることを知ることができた。リハビリテーション以外の分野からの視点をもっと学習し、治療に活かせるヒントを探していく必要性を感じた。
「脳活体育」
運動が好きになる! 得意になる! 知性を育む
出版社:スキージャーナル
「脱・運動オンチ!運動スキル獲得の脳メカニズム」という題で柳原大(東京大学大学院准教授)はQ1からQ17の質問形式で述べている。
「運動オンチ」久々に私の脳の中を走った単語であった。この本の中では運動オンチの定義を「脳の中にある運動プログラムやモデルの生成と修正をめぐるメカニズムの不具合」「自分や他人の動作に伴う多様な感覚を正しく認識することができない」と述べられており、運動能力が向上するには、一流のアスリートの動きと自分とを比べたとき、その違いを正しく認識できるか、または自分が動く中で起きている誤りについて認識できているかに関わってくると准教授は述べている。小脳機能、ミラーニューロン、学習メカニズムの形成、情動など分かり易く述べられており、知識の再確認、整理を行うことができた。
次に「脳から見た効率的運動学習法」という題で篠原菊紀(諏訪東京理科大学教授)が述べている。印象的であったのが「心をこめてやりなさい」という言葉であった。心をこめることで、前頭前野を中心に脳内で活性化が起き、心を配った分、最初は動作に手間がかかりますが、結果早く獲得されると述べています。意識・無意識については「意識の占める割合はとても小さい。大海原に浮く一艘の舟が意識で、舟をうまく使うと海流を変えられることはあるという感じです。したがって、意識的には新たな動きをやろうと思っても、うまくいかないのが普通です。意図的に変えようと思っても動きはそう簡単に変えられない。努力はしつつも、なすがままにするしかない場合が多いし、そちらの方が当たり前なのです。ちょっと意識を使って無意識の変化を待てば比較的早くうまくいく。これがコツです」と述べる。使っている筋肉を意識しながら筋トレをした場合と意識せず筋トレをした場合では脳の活性化のレベルが違い、意識しての筋トレの方が活性化しているデーターを図を用いて表している。以前スピードスケート長野オリンピック、金メダリストの清水宏保さんは常にトレーニング中どこの筋肉を使っているのかを意識しながら行い「脳が疲れる」ということが「神の身体」という本の中に書かれていたことを思い出した。意識を向ける、向けないだけで同じ運動を行うのに脳の活性化が違うことが科学的に証明されていた。私たちセラピストはこの知見を利用し治療に取り入れなければいけない。治療を行う際には意識を向けるように指示する必要がある。限られた治療時間の中で、いかに効率的に時間を利用しなおかつ、結果をだすかに臨床家は取り組まなければならない。
「運動が知性を育む!才能を開く!先端トレーニング コオーディネーショントレーニング」荒木秀夫(徳島大学大学院教授)は現在、学校や地域のクラブチームで用いられるようになっているトレーニング方法は「コーディネーション」といわれており1970年代に旧東ドイツでつくられた運動理論をもとにしているが荒木教授は「コオーデション・トレーニング」という人の本来もっている能力に着目するということであり、部分的な能力の特化を目指さない。全人的な能力開発を目指す。このコオーディネーショントレーニングを北京オリンピック4×100mリレーで日本トラック史上男子初となる銅メダルを獲得した朝原宣治氏も取り入れている。荒木教授は今までとは異なる理論で結果を出そうとしている。この本の中では健常者の運動能力向上を中心に述べられており、脳の治療という視点で書かれた本ではないが基礎知識の整理、スポーツの世界でも全体性を考慮した理論が存在し展開されていることを知ることができた。リハビリテーション以外の分野からの視点をもっと学習し、治療に活かせるヒントを探していく必要性を感じた。
2011年11月15日火曜日
書いてみなければわからない
荻野 敏(国府病院)
新潮CD小林秀雄講演【第八巻】
宣長の学問 CD-1 1「書いてみなければわからない」
新潮社
皆さんは小林秀雄という人の名前を聞いたことがあるだろうか。聞いたことがないと思った人は、このホームページをしっかり見ていないということになる。愛知県認知運動療法研究会のホームページ左下に書かれている『美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない』という言葉は小林秀雄の「当麻」という随筆の中の一節だ。さて、今回の臨床のヒントにその小林秀雄のCDブック講演集を取り上げてみたい。ファンとまでは言えないかもしれが、僕は小林秀雄から少なくとも影響を受けていることは間違いない。脳科学や教育者の本を読んでいると、よくこの小林秀雄という人物の名前が出てくる。初めはそんなに興味もなかったが、「モオツァルト・無常という事」(新潮社)を読んで、もっと知りたくなったのだ。1929年に東京に生まれ、独創的な批評活動を行い、日本の現代文学における批評家としての価値を確立した人物である。1983年に没するまで、多くの執筆物を刊行している。もちろん、すでに亡くなっている方なので、講演を聞きに行くことはできない。しかし、新潮社からCDブックが出ていることを知り、数年前に第一巻から第七巻まで全巻揃えて大人買いをしたのだ。1巻にCDが2枚入っている。すべてのCDを自家用車のHDDに入れて、よく聞いている。ベルグソンやユングの話は秀逸だ。最近、第八巻が刊行されたので、聞いているところである。
さて、話に戻ろう。最近買った第八巻「宣長の学問」というCDの1番目に「書いてみなければわからない」というタイトルがついた講演がある。この講演は昭和40年11月27日、つまり今からざっと46年前に國學院大學大講堂にて、國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所主催「秋季学術講演会」で行われた講演『雑感』を収録したものだ。はじめは淡々と、ユーモアを加えながら語りだしていくが、少し経つと言葉に勢いが組み込まれて聴衆に問いかけるように迫ってくる。その声の迫力に圧倒されそうになる。
「これ書かないと書かないんですね。書かないと書かないってことはつまりね、頭の中でこういう風なものを書こうという観念が出来上がれば書こうなんて思ってたら一生書かないんです。だからとにかく書いてみるんです。とにかく書いてみると、書いた自分の文章から何かが今度は出てくる。という風なことだからとにかく書いてみようと思って書き出したわけです。だからこれはどうなるかわからんです」
講演の一部分を抜粋してみた。あくまでこの講演は文章を書く、執筆をするという事が主題になっているが、見方を変えると僕らへの批評にもとれる。僕はどう聞き取ったかというと、認知運動療法を行う場合に躊躇いがどうしても出てくることがある。「こんなことをして患者に怒られないだろうか」「こんな解釈や仮説でいいのだろか」「もう少しここについて勉強してからやったほうがいいだろうか」と。これは誰に対しての戸惑いだろう。患者?スタッフ?いや自分でしょ。結局、自分が一番かわいいから、どうしても後回しにしてしまう。それでいいのだろうか。セラピストしての最大限の知識を動員して出した病態仮説・治療仮説ならなぜそれを確かめないのか。イタリアでもボルシスタが立てた仮説を、パンテ先生をはじめとするセラピストは「facciamo verificare(検証してみましょう)」と、道具を使って訓練を実践していた。そこで患者が上手く知覚仮説を立てることができて解答できたなら、その病態仮説は間違っていたことになる。上手く解答できなければ、そこに問題がある可能性が高くなる。さらに精度を高めて・・・・。とディスカッションをしながらどんどん訓練を進めて構築していく。その臨床風景は美しかった。研究者には研究者の役割が、教育者には教育者の役割がある。臨床家に求められているものは何か。『とにかく実践してみる。実践してみるとそこから何かが出てくる。だからとにかく実践してみよう』と小林秀雄が言っているような気がしてならない。変にスマートになる必要はないのではないか。「もっといい方法がないだろうか」「どうしてなんだろう」と、泥臭く、ジタバタしながら、悩み、足掻き、資料を調べながらディスカッションをしている、そんな姿の臨床家の方が僕は美しいと思う。
全部入れるとCDが16枚分。単純に計算すると16時間ぐらいの講演を聞くことができる。文字を読んで、著者の心持ちを想像しながら読み込むのももちろん良いが、たまには偉人の肉声をライブ感覚で聞くことも一味違って良い。肉声から響き渡る、感情の起伏、声のトーンや大きさ、間の感覚や息遣いを感じてみてほしい。そして一緒に悩みましょう。
新潮CD小林秀雄講演【第八巻】
宣長の学問 CD-1 1「書いてみなければわからない」
新潮社
皆さんは小林秀雄という人の名前を聞いたことがあるだろうか。聞いたことがないと思った人は、このホームページをしっかり見ていないということになる。愛知県認知運動療法研究会のホームページ左下に書かれている『美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない』という言葉は小林秀雄の「当麻」という随筆の中の一節だ。さて、今回の臨床のヒントにその小林秀雄のCDブック講演集を取り上げてみたい。ファンとまでは言えないかもしれが、僕は小林秀雄から少なくとも影響を受けていることは間違いない。脳科学や教育者の本を読んでいると、よくこの小林秀雄という人物の名前が出てくる。初めはそんなに興味もなかったが、「モオツァルト・無常という事」(新潮社)を読んで、もっと知りたくなったのだ。1929年に東京に生まれ、独創的な批評活動を行い、日本の現代文学における批評家としての価値を確立した人物である。1983年に没するまで、多くの執筆物を刊行している。もちろん、すでに亡くなっている方なので、講演を聞きに行くことはできない。しかし、新潮社からCDブックが出ていることを知り、数年前に第一巻から第七巻まで全巻揃えて大人買いをしたのだ。1巻にCDが2枚入っている。すべてのCDを自家用車のHDDに入れて、よく聞いている。ベルグソンやユングの話は秀逸だ。最近、第八巻が刊行されたので、聞いているところである。
さて、話に戻ろう。最近買った第八巻「宣長の学問」というCDの1番目に「書いてみなければわからない」というタイトルがついた講演がある。この講演は昭和40年11月27日、つまり今からざっと46年前に國學院大學大講堂にて、國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所主催「秋季学術講演会」で行われた講演『雑感』を収録したものだ。はじめは淡々と、ユーモアを加えながら語りだしていくが、少し経つと言葉に勢いが組み込まれて聴衆に問いかけるように迫ってくる。その声の迫力に圧倒されそうになる。
「これ書かないと書かないんですね。書かないと書かないってことはつまりね、頭の中でこういう風なものを書こうという観念が出来上がれば書こうなんて思ってたら一生書かないんです。だからとにかく書いてみるんです。とにかく書いてみると、書いた自分の文章から何かが今度は出てくる。という風なことだからとにかく書いてみようと思って書き出したわけです。だからこれはどうなるかわからんです」
講演の一部分を抜粋してみた。あくまでこの講演は文章を書く、執筆をするという事が主題になっているが、見方を変えると僕らへの批評にもとれる。僕はどう聞き取ったかというと、認知運動療法を行う場合に躊躇いがどうしても出てくることがある。「こんなことをして患者に怒られないだろうか」「こんな解釈や仮説でいいのだろか」「もう少しここについて勉強してからやったほうがいいだろうか」と。これは誰に対しての戸惑いだろう。患者?スタッフ?いや自分でしょ。結局、自分が一番かわいいから、どうしても後回しにしてしまう。それでいいのだろうか。セラピストしての最大限の知識を動員して出した病態仮説・治療仮説ならなぜそれを確かめないのか。イタリアでもボルシスタが立てた仮説を、パンテ先生をはじめとするセラピストは「facciamo verificare(検証してみましょう)」と、道具を使って訓練を実践していた。そこで患者が上手く知覚仮説を立てることができて解答できたなら、その病態仮説は間違っていたことになる。上手く解答できなければ、そこに問題がある可能性が高くなる。さらに精度を高めて・・・・。とディスカッションをしながらどんどん訓練を進めて構築していく。その臨床風景は美しかった。研究者には研究者の役割が、教育者には教育者の役割がある。臨床家に求められているものは何か。『とにかく実践してみる。実践してみるとそこから何かが出てくる。だからとにかく実践してみよう』と小林秀雄が言っているような気がしてならない。変にスマートになる必要はないのではないか。「もっといい方法がないだろうか」「どうしてなんだろう」と、泥臭く、ジタバタしながら、悩み、足掻き、資料を調べながらディスカッションをしている、そんな姿の臨床家の方が僕は美しいと思う。
全部入れるとCDが16枚分。単純に計算すると16時間ぐらいの講演を聞くことができる。文字を読んで、著者の心持ちを想像しながら読み込むのももちろん良いが、たまには偉人の肉声をライブ感覚で聞くことも一味違って良い。肉声から響き渡る、感情の起伏、声のトーンや大きさ、間の感覚や息遣いを感じてみてほしい。そして一緒に悩みましょう。
2011年11月3日木曜日
ことばが生まれる基盤とは
井内 勲(岡崎共立病院)
『ことばが生まれる基盤とは』 松井智子:著 科学77(6), 70-78. (2007):岩波書店
人間だけでなく霊長類の多くは、音声やジェスチャーを使ってコミュニケーションをする。しかし、情報伝達の方法としてコミュニケーションに言語を獲得し、使用しているのはその中でヒトだけである。この論文において著者は専門とする語用論(言語表現とそれを用いる使用者や文脈との関係を研究する分野)から、とくにヒトのコミュニケーションのメカニズムとその発達研究に焦点を当てる事により、著者は我々の言語が「伝達意図を理解する能力」を基盤として生まれたのかもしれないと述べている。
自分は小児の言語発達と、自閉症について知りたくこの論文を読み出した。確かにことばの発達、二項関係から三項関係のコミュニケーションでの伝達意図の理解など、全般として、1歳~3,4歳の発達研究として思慮深く読み進めた。しかしそれだけでなく、我々が治療の中で使うことば、患者が使う、もしくは使う事が出来ない、使いたくても使えないことばの奥を知る手がかりになるかもしれないと感じた。
「人間のコミュニケーションにおいて、言葉の理解は重要な役割を果たすが、コミュニケーションの最終的な目的は、話し手が伝えようとしている意図、欲求、思考、態度、感情など、言葉の意味以上の内容を聞き手が理解する事で、言葉はそれを見つけ出す手がかりに過ぎない。」
「コミュニケーションで文脈を理解するには、話し手がかなりの手がかりを提供している、それは言葉であったり、声のトーンであったり、表情であったする。加えて、もうひとつ大きな手がかりは、(略)話し手は聞き手の注意を引く。この行為が、無限にありそうな文脈を絞りこむのに重要な役割を果たすと考えられる。」
自分自身、治療を進める段階においてまだまだ上手く紐解けない部分であるが、挑戦したい。
『ことばが生まれる基盤とは』 松井智子:著 科学77(6), 70-78. (2007):岩波書店
人間だけでなく霊長類の多くは、音声やジェスチャーを使ってコミュニケーションをする。しかし、情報伝達の方法としてコミュニケーションに言語を獲得し、使用しているのはその中でヒトだけである。この論文において著者は専門とする語用論(言語表現とそれを用いる使用者や文脈との関係を研究する分野)から、とくにヒトのコミュニケーションのメカニズムとその発達研究に焦点を当てる事により、著者は我々の言語が「伝達意図を理解する能力」を基盤として生まれたのかもしれないと述べている。
自分は小児の言語発達と、自閉症について知りたくこの論文を読み出した。確かにことばの発達、二項関係から三項関係のコミュニケーションでの伝達意図の理解など、全般として、1歳~3,4歳の発達研究として思慮深く読み進めた。しかしそれだけでなく、我々が治療の中で使うことば、患者が使う、もしくは使う事が出来ない、使いたくても使えないことばの奥を知る手がかりになるかもしれないと感じた。
「人間のコミュニケーションにおいて、言葉の理解は重要な役割を果たすが、コミュニケーションの最終的な目的は、話し手が伝えようとしている意図、欲求、思考、態度、感情など、言葉の意味以上の内容を聞き手が理解する事で、言葉はそれを見つけ出す手がかりに過ぎない。」
「コミュニケーションで文脈を理解するには、話し手がかなりの手がかりを提供している、それは言葉であったり、声のトーンであったり、表情であったする。加えて、もうひとつ大きな手がかりは、(略)話し手は聞き手の注意を引く。この行為が、無限にありそうな文脈を絞りこむのに重要な役割を果たすと考えられる。」
自分自身、治療を進める段階においてまだまだ上手く紐解けない部分であるが、挑戦したい。
