進藤 隆治(国府病院)
「クリニカルリーズニング」から考えたこと
PTジャーナル第43巻第2号 特集:クリニカルリーズニング
「クリニカルリーズニング」という言葉を最近聴くが私自身はこの言葉を知らなかった。しかし、興味を持つきっかけになったのが、私も参加したいと思ってできなかったニューロセミナー臨床編において、森岡周先生の講義「神経科学を用いたクリニカルリーズニング」を聴いた先生方の多くが賞賛していたからだ。今回はPTジャーナル第43巻第2号で記載されているクリニカルリーズニングの特集を読み、その後、仮説検証について自分なりに考えたことを書きたいと思う。
クリニカルリーズニングは「臨床推論」といわれるもので、「対象者の訴えや症状から病態を推測し、仮説に基づき適切な検査法を選択して対象者に最も適した介入を決定していく一連の心理的過程を指す。この過程は、気づきとともに経験や知識に基づく理論的思考による鑑別と選択の連続で、仮説を検証する工程を繰り返している」(内山)とある。
また、学生指導にも思考過程が用いられており、「最終的には学生自身で自己フィードバック(メタ認知、批判的思考)し、自己学習ができるようになること」(有馬)とあった。
まず、自分が考えたことは仮説検証の作業の重要性である。
認知運動療法(ETC)では演繹法を用い、セラピストは「問題-仮説-検証」といった認識論的な視点から患者を捉えるが、クリニカルリーズニングでも仮説・検証といった思考過程は重要とされている。もちろん仮説検証の過程は専門的知識に裏付けされたものでなければならないが、ETCにおいても神経生理学的視点を持つことで裏付けされた情報をもとに治療が行われる。
今更ではあるが、神経科学・神経心理学といった知識を身につけ神経生理学的視点を自分なりに考察することが仮説検証を行っていく過程において重要であると実感した。
次に考えたことは仮説検証の作業における落とし穴についてである。
「仮説には帰無仮説と対立仮説とが存在する」(吉尾)とあるが、つまり証明されてほしくない仮説と説明されることが歓迎される仮説があるということである。これにより知見を集める(情報収集)際にバイアスがかかり偏った結果を導くことがあるということが指摘されている。このことからも仮説検証作業において相当な根拠のもと客観的立場で臨む必要があるといえる。
検証作業において、なぜ、良くなったか・良くならなかったか、もっと良くできなかったかどうか、他にアプローチの仕方はなかったかどうかなど、言い出せばきりはないぐらいが、あらゆる可能性を考慮しなければならない。これを行っていこうと思うと、時間との戦いもあるし、複数の患者に対して同時進行をしていくのにはかなり難しい(弱音を吐いているように思われてしまうが・・・)。だが、少しでも仮説検証を明確にしていくためにも、自分の思考過程をフィードバックし、批判的思考を付け加えて考えていくことが必要である。
今回はクリニカルリーズニングについて調べるとともに仮説検証について考えさせられた。仮説検証に対してどれだけ裏付けされた情報をもってこられるか、自分の思考過程に対して客観的な態度をとれるかといった要点を挙げた。治療において仮説検証を繰り返していく作業はより厳密に行っていかなければと改めて思った。
2012年12月15日土曜日
2012年12月2日日曜日
Tom & Jerry
首藤 康聡(岡崎南病院)
この作品を皆さんもきっと一度は、いや何度も見たことがあるんじゃないでしょうか?
この作品は体が大きく凶暴だが、おっちょこちょいでどこか憎めない部分のあるネコのトムと、体は小さいが頭脳明晰で、追い掛けてくるトムをことも無げにさらりとかわすネズミのジェリーのドタバタを、ナンセンスとユーモアたっぷりに描いた作品ですが、最近、うちの子供が何度もDVDを見ては笑い転げています。もちろん大人の僕が見ても面白くいつも笑ってしまいます。
さて、このアニメの特徴は圧倒的に言葉が少ないという点ではないでしょうか?軽快なバックミュージックや効果音で盛り上げてはいますが、その大半が無言で表現されています。ところが日本語の吹き替え版になるとわかりやすくするためなのか、原作で2匹が話をしていないような場面でも日本語で2匹が話をしています。
さて、皆さんはどちらが面白いと思うでしょうか?実はこれを見ていた妻と僕は同じ意見でした。それは圧倒的に原作の方が面白いという意見でした。普通考えれば日本語であるためストーリーもわかりやすく、理解しやすいので面白いと感じると思いませんか?でも答えは違いました。それは一体なぜなんでしょうか?
もちろんこれには色々な理由があると思います。そのうちの一つが「わかりやすさ」にあると思います。原作では言葉が少ないため、コミカルな2匹の動きやそれを脚色するバックミュージックが絶妙なバランスで見事にマッチングしているのです。ここに日本語が必要以上に追加されることで、そのバランスを崩してしまい表現力が損なわれてしまったんではないでしょうか?
つまり情報が多すぎることでそのバランスを失ってしまったというわけです。最近はインターネットが当たり前の世の中で、情報に困ることはありません。しかし、情報に満たされてしまうと探索する事を忘れてしまいます。だって待っているだけで情報は寄せられますからね。情報は多い方が良い。そう思う事はあります。しかし、多すぎても良いとは限りません。
認知神経リハビリテーションは患者さんと相互作用しながら訓練が展開していきます。しかし、訓練を展開して行く中でついつい情報が多くなってしまうことはありませんか?そうすれば患者さんは能動的探索は行わなくなるかもしれません。
その他にも色々と考えるヒントを探すにはピッタリの物語だと思います。ただ、もう一つオススメする理由があります。いかがでしょう?忙しい日々の中で思いっきり笑う時間を作って見ませんか?きっと素敵な時間が過ごせるはずですよ。
この作品を皆さんもきっと一度は、いや何度も見たことがあるんじゃないでしょうか?
この作品は体が大きく凶暴だが、おっちょこちょいでどこか憎めない部分のあるネコのトムと、体は小さいが頭脳明晰で、追い掛けてくるトムをことも無げにさらりとかわすネズミのジェリーのドタバタを、ナンセンスとユーモアたっぷりに描いた作品ですが、最近、うちの子供が何度もDVDを見ては笑い転げています。もちろん大人の僕が見ても面白くいつも笑ってしまいます。
さて、このアニメの特徴は圧倒的に言葉が少ないという点ではないでしょうか?軽快なバックミュージックや効果音で盛り上げてはいますが、その大半が無言で表現されています。ところが日本語の吹き替え版になるとわかりやすくするためなのか、原作で2匹が話をしていないような場面でも日本語で2匹が話をしています。
さて、皆さんはどちらが面白いと思うでしょうか?実はこれを見ていた妻と僕は同じ意見でした。それは圧倒的に原作の方が面白いという意見でした。普通考えれば日本語であるためストーリーもわかりやすく、理解しやすいので面白いと感じると思いませんか?でも答えは違いました。それは一体なぜなんでしょうか?
もちろんこれには色々な理由があると思います。そのうちの一つが「わかりやすさ」にあると思います。原作では言葉が少ないため、コミカルな2匹の動きやそれを脚色するバックミュージックが絶妙なバランスで見事にマッチングしているのです。ここに日本語が必要以上に追加されることで、そのバランスを崩してしまい表現力が損なわれてしまったんではないでしょうか?
つまり情報が多すぎることでそのバランスを失ってしまったというわけです。最近はインターネットが当たり前の世の中で、情報に困ることはありません。しかし、情報に満たされてしまうと探索する事を忘れてしまいます。だって待っているだけで情報は寄せられますからね。情報は多い方が良い。そう思う事はあります。しかし、多すぎても良いとは限りません。
認知神経リハビリテーションは患者さんと相互作用しながら訓練が展開していきます。しかし、訓練を展開して行く中でついつい情報が多くなってしまうことはありませんか?そうすれば患者さんは能動的探索は行わなくなるかもしれません。
その他にも色々と考えるヒントを探すにはピッタリの物語だと思います。ただ、もう一つオススメする理由があります。いかがでしょう?忙しい日々の中で思いっきり笑う時間を作って見ませんか?きっと素敵な時間が過ごせるはずですよ。
2012年11月16日金曜日
人は見た目が9割
佐藤 郁江(岡崎南病院)
竹内一郎 新潮新書 2005
言葉だけでは語れないものが存在します。今までいろいろな所で話を聞いています。この本も「話す言葉の内容は7%で残りの93%は顔の表情や声の質である。実際には、みなし波や仕草も大きく影響するだろう」と書かれています。言葉以外の伝達であるノンバーバル・コミュニケーションの重要性を語っています。
この本の中で私が注目したのは、「日本人は無口なおしゃべり」の項目で日本人の特徴を8つ述べています。
・「語らぬ」文化、農民の文化で仕事中に喋っている必要がないことからきているもの。
・「わからせぬ」文化、わからせようとする気持ちが少ないとされている。
・「いたわる」文化、こころや体に傷を負っている場合、その話題には最初から触れないでおこうという、暗黙の了解ができる。
・「ひかえる」文化、基本的には強い自己主張をしない。長所を語る場合も「自慢のように聞こえるかもしれませんが」と予防線を張る。
・「修める」文化、毎日反復すること。武道の修行の考え方。
・「ささやかな」文化、ささやかなものを愛している。短歌や俳句などの極端に短い短詩形文学。
・「流れる」文化、諸行無常。物事は常に変化する。そのために自己主張をする必要性を減衰させる。
・「まかせる」文化、仏教のことばでいえば、「南無」につながる。「おまかせします」
ここに書かれていることだけだと少しさみしく感じる部分もあるのだが、この中にもそれぞれ、察するということが含まれてくるところが多いです。
また患者さんにおいても多くは言葉で語らない中にも何か表現をしていることがあったりします。直接言えないことも多いと思われます。しかし「いたわる」部分で相手のことを考えてもいます。直截な指摘ではなく変化してくることこれは自己の中での変化をしてくることで、察することにつながっている部分もあるかもしれないと感じました。
日本人の特徴として書かれていますが、農耕文化の中で出てきたものであり、少しずつではありますが、変化してきている部分もあるとは考えられます。
竹内一郎 新潮新書 2005
言葉だけでは語れないものが存在します。今までいろいろな所で話を聞いています。この本も「話す言葉の内容は7%で残りの93%は顔の表情や声の質である。実際には、みなし波や仕草も大きく影響するだろう」と書かれています。言葉以外の伝達であるノンバーバル・コミュニケーションの重要性を語っています。
この本の中で私が注目したのは、「日本人は無口なおしゃべり」の項目で日本人の特徴を8つ述べています。
・「語らぬ」文化、農民の文化で仕事中に喋っている必要がないことからきているもの。
・「わからせぬ」文化、わからせようとする気持ちが少ないとされている。
・「いたわる」文化、こころや体に傷を負っている場合、その話題には最初から触れないでおこうという、暗黙の了解ができる。
・「ひかえる」文化、基本的には強い自己主張をしない。長所を語る場合も「自慢のように聞こえるかもしれませんが」と予防線を張る。
・「修める」文化、毎日反復すること。武道の修行の考え方。
・「ささやかな」文化、ささやかなものを愛している。短歌や俳句などの極端に短い短詩形文学。
・「流れる」文化、諸行無常。物事は常に変化する。そのために自己主張をする必要性を減衰させる。
・「まかせる」文化、仏教のことばでいえば、「南無」につながる。「おまかせします」
ここに書かれていることだけだと少しさみしく感じる部分もあるのだが、この中にもそれぞれ、察するということが含まれてくるところが多いです。
また患者さんにおいても多くは言葉で語らない中にも何か表現をしていることがあったりします。直接言えないことも多いと思われます。しかし「いたわる」部分で相手のことを考えてもいます。直截な指摘ではなく変化してくることこれは自己の中での変化をしてくることで、察することにつながっている部分もあるかもしれないと感じました。
日本人の特徴として書かれていますが、農耕文化の中で出てきたものであり、少しずつではありますが、変化してきている部分もあるとは考えられます。
2012年11月1日木曜日
天才と発達障害
尾崎正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)
天才と発達障害
岡南 著(講談社)
視覚優位のアントニオ・ガウディと聴覚優位のルイス・キャロル。かれらの認知の偏りが偉大なる「サクラダ・ファミリア聖堂」や「不思議な国のアリス」を生み出した。発達障害の新たな可能性を探る衝撃の書。発達障害研究の権威、杉山登志郎氏大絶賛「10年に1冊の画期的な人智科学の登場である」という本の帯に誘われ手に取った書籍です。
著者は視覚からの情報と、聴覚からの情報では同じ一つの事象であっても印象が異なり視覚が優れている人たちは、言語を覚える以前に、視覚で直接ものを見て考えることができ、自身の頭の中の映像を使って思考する人たちは、ものの名前を覚えることなく、脳裏に映像を描いて考えており、その反対に多くの皆さんは、言葉を聴覚で聴き覚え、理解し、知識として積み重ね、思考している。前者を「視覚優位」後者を「聴覚優位」という表現をしています。「視覚優位」の能力は一般に視覚記憶を生かし、土木・建築・デザイン・服飾・映像・生物学・物理学・パイロット・外科医・スポーツなどの世界に必要で思考がみな観察や空間をよりどころとしているもので、頭の中にある自前の映像で、動きやかかわり方を思考できるということは、既存の方法に頼ることができない仕事をする場合には、極めて便利なものです。視覚優位の中でも「映像思考」には大きく分けて二つの機能があり、一つは映像で記憶しそれをもとに考えること。もう一つは、映像でコミュニケーションをすることであり、反対に「聴覚優位」の人は、空間認知が苦手ですが、路襲性を必要とする学習や語学などは、聴覚からの記憶の良さが手伝い、たいへん優れています。聴覚優位な能力は、語学関係、音楽関係、俳優、小説家などの世界に必要なものだと述べています。
第二章ではアントニオ・ガウディ「四次元の世界」、第三章ではルイス・キャロルが生きた「不思議の世界」を述べています。詳細は興味のある方は読んで頂くとして、相貌失認の人の見え方、キャロルの相貌失認について、アスペルガー症候群、キャロルの吃音障害など様々な障害の中で素晴らしい作品が生まれていることがわかります。
ガウディは言っています。「私が出来の悪い学生だったのではなく、悪かったのは私に合った教授がいなかったということだ。その証拠に、型通り学校を出た建築家たちがなしたことと私のなしたこととを比較すれば、私の方に軍配が上がるだろう。」また、芸術については「芸術に師はない。唯一の師は自分自身である。あるのは芸術を学ぶ方法である。それ故、養成機関は、作品を直接見せるか、あるいは、(雑誌などの)図版によって、範例とその知識の便宜を計るのだ。・・・ただし、学校も美術サークルも雑誌にしても、芸術を学ぶための補助にすぎない。」あくまでも、ガウディは自分の目で学ぶことを求めています。
著者は映像思考であり、本を長い時間集中して読み続けることが難しく言語のままの蓄積も苦手だそうです。読んだものを一旦映像に交換し理解をしたところで、今度はノートに手書きをし、自分の手でかかないとその後に言語表現は難しく、例えば読んだ本の内容を、ノートパソコンに打ち込んだ場合、自身の視覚でモニターを見ても、後で文章として使えるような記憶にならないそうです。書く作業は、筋肉の動きが記憶の助けになり、そのように手間をかけて理解をしても、そのうち言語は消え、映像での理解が出来なくなってしまうそうです。映像で長期保存をしている内容を、あらためて言語で表現しようとすると、今度は言語を一から組み立てていくような大変さにみまわれ、どうしても時間がかかるそうです。
この書籍の「刊行に向けて」の中で国立成育医療研究センターの宮尾益知さんは発達障害の子供たちにはどのような未来があるのだろうか、と考えを巡らせ、発達障害として語られている著明なモーツアルト、エジソン、チャーチル、アインシュタイン、グレングールド、チャールズ・ダーウィンなど、才能ある人たちの作品や当時のエピソードから診断できれば、発達障害の子供たちへの希望の星になるのではないかという思いを抱き、認知の面から人の特性をとらえていくことは、発達障害と言われる人々の個人の能力をいかに伸ばし、どう開花させればよいのか、「障害から才能へ」と導く指針となるでしょう。と述べています。
患者の身体と精神を理解し仮説を立て検証していく中で、気づいていないことや理解していないことがあると、病態に対し的確な治療とかけ離れてしまった治療をしてしまう危険性があることをこの書籍を通じ理解することができました。ガウディの「私に合った教授がいなかったというだけだ」という言葉をリハビリテーションの世界に置き換えると機能回復ができなかったのは「私に合ったセラピストがいなかったからだ」と言われているような気もちになり、改めて治療を行う上で患者を理解することの重要性を感じさせて頂きました。
天才と発達障害
岡南 著(講談社)
視覚優位のアントニオ・ガウディと聴覚優位のルイス・キャロル。かれらの認知の偏りが偉大なる「サクラダ・ファミリア聖堂」や「不思議な国のアリス」を生み出した。発達障害の新たな可能性を探る衝撃の書。発達障害研究の権威、杉山登志郎氏大絶賛「10年に1冊の画期的な人智科学の登場である」という本の帯に誘われ手に取った書籍です。
著者は視覚からの情報と、聴覚からの情報では同じ一つの事象であっても印象が異なり視覚が優れている人たちは、言語を覚える以前に、視覚で直接ものを見て考えることができ、自身の頭の中の映像を使って思考する人たちは、ものの名前を覚えることなく、脳裏に映像を描いて考えており、その反対に多くの皆さんは、言葉を聴覚で聴き覚え、理解し、知識として積み重ね、思考している。前者を「視覚優位」後者を「聴覚優位」という表現をしています。「視覚優位」の能力は一般に視覚記憶を生かし、土木・建築・デザイン・服飾・映像・生物学・物理学・パイロット・外科医・スポーツなどの世界に必要で思考がみな観察や空間をよりどころとしているもので、頭の中にある自前の映像で、動きやかかわり方を思考できるということは、既存の方法に頼ることができない仕事をする場合には、極めて便利なものです。視覚優位の中でも「映像思考」には大きく分けて二つの機能があり、一つは映像で記憶しそれをもとに考えること。もう一つは、映像でコミュニケーションをすることであり、反対に「聴覚優位」の人は、空間認知が苦手ですが、路襲性を必要とする学習や語学などは、聴覚からの記憶の良さが手伝い、たいへん優れています。聴覚優位な能力は、語学関係、音楽関係、俳優、小説家などの世界に必要なものだと述べています。
第二章ではアントニオ・ガウディ「四次元の世界」、第三章ではルイス・キャロルが生きた「不思議の世界」を述べています。詳細は興味のある方は読んで頂くとして、相貌失認の人の見え方、キャロルの相貌失認について、アスペルガー症候群、キャロルの吃音障害など様々な障害の中で素晴らしい作品が生まれていることがわかります。
ガウディは言っています。「私が出来の悪い学生だったのではなく、悪かったのは私に合った教授がいなかったということだ。その証拠に、型通り学校を出た建築家たちがなしたことと私のなしたこととを比較すれば、私の方に軍配が上がるだろう。」また、芸術については「芸術に師はない。唯一の師は自分自身である。あるのは芸術を学ぶ方法である。それ故、養成機関は、作品を直接見せるか、あるいは、(雑誌などの)図版によって、範例とその知識の便宜を計るのだ。・・・ただし、学校も美術サークルも雑誌にしても、芸術を学ぶための補助にすぎない。」あくまでも、ガウディは自分の目で学ぶことを求めています。
著者は映像思考であり、本を長い時間集中して読み続けることが難しく言語のままの蓄積も苦手だそうです。読んだものを一旦映像に交換し理解をしたところで、今度はノートに手書きをし、自分の手でかかないとその後に言語表現は難しく、例えば読んだ本の内容を、ノートパソコンに打ち込んだ場合、自身の視覚でモニターを見ても、後で文章として使えるような記憶にならないそうです。書く作業は、筋肉の動きが記憶の助けになり、そのように手間をかけて理解をしても、そのうち言語は消え、映像での理解が出来なくなってしまうそうです。映像で長期保存をしている内容を、あらためて言語で表現しようとすると、今度は言語を一から組み立てていくような大変さにみまわれ、どうしても時間がかかるそうです。
この書籍の「刊行に向けて」の中で国立成育医療研究センターの宮尾益知さんは発達障害の子供たちにはどのような未来があるのだろうか、と考えを巡らせ、発達障害として語られている著明なモーツアルト、エジソン、チャーチル、アインシュタイン、グレングールド、チャールズ・ダーウィンなど、才能ある人たちの作品や当時のエピソードから診断できれば、発達障害の子供たちへの希望の星になるのではないかという思いを抱き、認知の面から人の特性をとらえていくことは、発達障害と言われる人々の個人の能力をいかに伸ばし、どう開花させればよいのか、「障害から才能へ」と導く指針となるでしょう。と述べています。
患者の身体と精神を理解し仮説を立て検証していく中で、気づいていないことや理解していないことがあると、病態に対し的確な治療とかけ離れてしまった治療をしてしまう危険性があることをこの書籍を通じ理解することができました。ガウディの「私に合った教授がいなかったというだけだ」という言葉をリハビリテーションの世界に置き換えると機能回復ができなかったのは「私に合ったセラピストがいなかったからだ」と言われているような気もちになり、改めて治療を行う上で患者を理解することの重要性を感じさせて頂きました。
2012年10月17日水曜日
パスカル パンセ
荻野 敏(国府病院)
NHKテレビテキスト 100分de名著
パスカル パンセ 著:鹿島茂
パスカルって知ってますか?
知らないと言う人でも、“ヘクトパスカル”と聞くと「あああ!」と気づくかもしれませんね。じゃあ「人間は考える葦である」って言葉は聞いたことありませんか?「クレオパトラの鼻」の話は聞いたことありませんか?
実はパスカルという哲学者が書いたパンセという本に書かれているんですよ、葦もクレオパトラも。パスカルは1623年に生まれたフランスの数学者・物理学者・文学者・哲学者です。日本ではまだ江戸時代が始まったばかりの頃に生まれているんですね。このパンセは「死後、書類の中から発見された、宗教およびその他の若干の主題に関するパスカル氏のパンセ(思索)」と言うのが正式な名称だそうで、これからもわかるとおり、パスカルが生前に書き巡らせた草稿を遺族や編者が編纂した随筆集です。なんども改訂を繰り返して現在の形になったそうですが、後半はキリスト教護教論の色彩が強く、日本人にはなじみが薄く、かつ理解が難しいのだそうです。もちろん僕もパンセを読んでいません。
たまたまテレビをつけていてこの番組に出合いました。この名著シリーズは他にも「ドラッガー」「ニーチェ」なども取り上げていて、興味がある人はNHKのサイトからバックナンバーを取り寄せるといいかもしれませんね。
いずれにしても、ちょろっと観たパンセにかなり惹かれてしまいました。たくさんの印象的な言葉が残っていますが、代表的な文章を紹介します。
人間というものは、どう見ても、考えるために創られている。考えることが人間の尊厳なのだ。人間の価値のすべて、その義務のすべては、正しく考えることにある。ところで、考えることの順序は、自分自身から始めることだ。いいかえると、自分自身を創った創造主とその目的から考え始めるのが正しい順序なのである(断章146)。
ちょっとキリスト教チックですけど、パスカルは考えることが人間の尊厳であり、価値や義務のすべてであると述べていますが、考えることと言うことが人間を不幸にするとも言っています。どういうことかというと考え始めると必然的に悲惨なこと、すなわち「死すべき運命」のことを考えるから不幸になるとパスカルは言います。考えることのプラスの価値とマイナスの価値を肯定しているのですからこれは矛盾です。しかしパスカルは、人間の悲惨とともに人間の尊厳がセットとして結びついていることが重要であると説きます。考えなければ人間ではない、考えることは悲惨なことと結びつくが、考え続けなければ人間の尊厳を失うのです。この部分は比喩を用いながら説明していますので、本当はもっと深く解説されています。しかし、考え続けることの意味を考えさせられます。
私たちの日々の臨床で、私たちはどれだけ考えているのでしょうか?一日を振り返り、「あの患者の症状は?」「あの患者の記述は?」「この訓練の目的は?」と考え続けているのでしょうか?これはかなり焦りますね。考えてないならパスカルに言わせれば人間ではないんだから。職業であるセラピストとして生きることを望むのであるならば患者について考え続けなければいけません。
本当にセラピストという職業に自分はあっているのだろうか?こんな疑問を感じたことはありませんか?少なくともセラピストになって一年目、僕はそう感じました。でもこのことについてもパスカルはパンセの中で記しています。
一生のうちでいちばん大事なのは、どんな職業を選ぶかということ、これに尽きる。ところが、それは偶然によって左右される。習慣が、石工を、兵士を、屋根葺き職人をつくるのだ(断章97)。
人間は、屋根葺き職人だろうとなんだろうと、生まれつき、あらゆる職業に向いている。向いていないのは部屋の中にじっとしていることだけだ(断章138)。
自分がその職業になるのではなく、その職業が自分を変える。私たちはセラピストになるのではなく、セラピストという職業が私たちを変えたのではないだろうか。そう思うと、自分はセラピストに向いていないなんて考えて不幸になる必要はないですよね。目の前の患者をどう治すかを考えるべきなんです、自分自身とその目的から考えを始めると言うことは自分がセラピストであるということとその目的から考えると言うことです。セラピストは患者を治すことが目的の仕事なんです。
職業に向いてる向いていないなんてことを考える前にすることがありますよね。少なくとも、今、目の前にいる患者にとってあなたはかけがえのないセラピストなんだから。
NHKテレビテキスト 100分de名著
パスカル パンセ 著:鹿島茂
パスカルって知ってますか?
知らないと言う人でも、“ヘクトパスカル”と聞くと「あああ!」と気づくかもしれませんね。じゃあ「人間は考える葦である」って言葉は聞いたことありませんか?「クレオパトラの鼻」の話は聞いたことありませんか?
実はパスカルという哲学者が書いたパンセという本に書かれているんですよ、葦もクレオパトラも。パスカルは1623年に生まれたフランスの数学者・物理学者・文学者・哲学者です。日本ではまだ江戸時代が始まったばかりの頃に生まれているんですね。このパンセは「死後、書類の中から発見された、宗教およびその他の若干の主題に関するパスカル氏のパンセ(思索)」と言うのが正式な名称だそうで、これからもわかるとおり、パスカルが生前に書き巡らせた草稿を遺族や編者が編纂した随筆集です。なんども改訂を繰り返して現在の形になったそうですが、後半はキリスト教護教論の色彩が強く、日本人にはなじみが薄く、かつ理解が難しいのだそうです。もちろん僕もパンセを読んでいません。
たまたまテレビをつけていてこの番組に出合いました。この名著シリーズは他にも「ドラッガー」「ニーチェ」なども取り上げていて、興味がある人はNHKのサイトからバックナンバーを取り寄せるといいかもしれませんね。
いずれにしても、ちょろっと観たパンセにかなり惹かれてしまいました。たくさんの印象的な言葉が残っていますが、代表的な文章を紹介します。
人間というものは、どう見ても、考えるために創られている。考えることが人間の尊厳なのだ。人間の価値のすべて、その義務のすべては、正しく考えることにある。ところで、考えることの順序は、自分自身から始めることだ。いいかえると、自分自身を創った創造主とその目的から考え始めるのが正しい順序なのである(断章146)。
ちょっとキリスト教チックですけど、パスカルは考えることが人間の尊厳であり、価値や義務のすべてであると述べていますが、考えることと言うことが人間を不幸にするとも言っています。どういうことかというと考え始めると必然的に悲惨なこと、すなわち「死すべき運命」のことを考えるから不幸になるとパスカルは言います。考えることのプラスの価値とマイナスの価値を肯定しているのですからこれは矛盾です。しかしパスカルは、人間の悲惨とともに人間の尊厳がセットとして結びついていることが重要であると説きます。考えなければ人間ではない、考えることは悲惨なことと結びつくが、考え続けなければ人間の尊厳を失うのです。この部分は比喩を用いながら説明していますので、本当はもっと深く解説されています。しかし、考え続けることの意味を考えさせられます。
私たちの日々の臨床で、私たちはどれだけ考えているのでしょうか?一日を振り返り、「あの患者の症状は?」「あの患者の記述は?」「この訓練の目的は?」と考え続けているのでしょうか?これはかなり焦りますね。考えてないならパスカルに言わせれば人間ではないんだから。職業であるセラピストとして生きることを望むのであるならば患者について考え続けなければいけません。
本当にセラピストという職業に自分はあっているのだろうか?こんな疑問を感じたことはありませんか?少なくともセラピストになって一年目、僕はそう感じました。でもこのことについてもパスカルはパンセの中で記しています。
一生のうちでいちばん大事なのは、どんな職業を選ぶかということ、これに尽きる。ところが、それは偶然によって左右される。習慣が、石工を、兵士を、屋根葺き職人をつくるのだ(断章97)。
人間は、屋根葺き職人だろうとなんだろうと、生まれつき、あらゆる職業に向いている。向いていないのは部屋の中にじっとしていることだけだ(断章138)。
自分がその職業になるのではなく、その職業が自分を変える。私たちはセラピストになるのではなく、セラピストという職業が私たちを変えたのではないだろうか。そう思うと、自分はセラピストに向いていないなんて考えて不幸になる必要はないですよね。目の前の患者をどう治すかを考えるべきなんです、自分自身とその目的から考えを始めると言うことは自分がセラピストであるということとその目的から考えると言うことです。セラピストは患者を治すことが目的の仕事なんです。
職業に向いてる向いていないなんてことを考える前にすることがありますよね。少なくとも、今、目の前にいる患者にとってあなたはかけがえのないセラピストなんだから。
2012年10月2日火曜日
脳が生み出す心的イメージの謎
井内 勲(岡崎共立病院)
脳が生み出す心的イメージの謎
別冊 日経サイエンス 脳から見た心の世界part2
発行:日経サイエンス社,2006.12.13
我々が日々の訓練で運動学習や、特異的病理のコントロールなどにおいて運動イメージを想起してもらう場面は多い。また運動イメージを使用することは、脳の活動においても実際の運動実行と運動イメージ中の活動領域にかなり共通しているという点や、運動のシステムとして、運動のプランニング、プログラムなどのより高次なレベルと関係するという点で、リハビリテーションの可能性を考慮する上で重要な意味があると言える。
しかし、臨床において患者に運動イメージを想起させるという事は非常に難渋する事も多く、本当に治療に効果的なイメージの想起が促せているのかと苦悩する。
今回『臨床のヒント』として紹介する文献は、心的イメージの生成において脳のなかで、対象の属性の関連づけによって構成されていると論ずるグループ(命題派)と実際の図形として表現されるというグループ(イメージ派)がそれぞれの論じており、未だしっかりと答えがない事や、イメージ(視覚)を思い浮かべる過程では、一次視覚野が活性化するという研究紹介など既に周知の事も多い。また、「心的イメージ」が「視覚イメージ」の内容であるため、直接的なヒントになり得るかどうかは読み手の現在の選択的注意の状況にゆだねる事がいつもより多いかもしれない。実際、自分もさらに悶々としてしまう部分もあった。しかしその中で最後の視覚表象と記憶の関連についてのエピソードが2例ほどあった。そこから日々の治療風景で、患者に「イメージしてみて下さい、出来ますか」とただ繰り返し問うだけではない、もう少し患者の回復に迫るべき運動イメージを促す為のヒントを自分は感じた。
先にも述べたようにこの文献だけでは不十分なテーマである、しかしイメージを治療のツールとする上でいかにそれを理解し、使用できるかという事はこれからも追求しなければいけない課題でもある。そのきっかけとして紹介したい
脳が生み出す心的イメージの謎
別冊 日経サイエンス 脳から見た心の世界part2
発行:日経サイエンス社,2006.12.13
我々が日々の訓練で運動学習や、特異的病理のコントロールなどにおいて運動イメージを想起してもらう場面は多い。また運動イメージを使用することは、脳の活動においても実際の運動実行と運動イメージ中の活動領域にかなり共通しているという点や、運動のシステムとして、運動のプランニング、プログラムなどのより高次なレベルと関係するという点で、リハビリテーションの可能性を考慮する上で重要な意味があると言える。
しかし、臨床において患者に運動イメージを想起させるという事は非常に難渋する事も多く、本当に治療に効果的なイメージの想起が促せているのかと苦悩する。
今回『臨床のヒント』として紹介する文献は、心的イメージの生成において脳のなかで、対象の属性の関連づけによって構成されていると論ずるグループ(命題派)と実際の図形として表現されるというグループ(イメージ派)がそれぞれの論じており、未だしっかりと答えがない事や、イメージ(視覚)を思い浮かべる過程では、一次視覚野が活性化するという研究紹介など既に周知の事も多い。また、「心的イメージ」が「視覚イメージ」の内容であるため、直接的なヒントになり得るかどうかは読み手の現在の選択的注意の状況にゆだねる事がいつもより多いかもしれない。実際、自分もさらに悶々としてしまう部分もあった。しかしその中で最後の視覚表象と記憶の関連についてのエピソードが2例ほどあった。そこから日々の治療風景で、患者に「イメージしてみて下さい、出来ますか」とただ繰り返し問うだけではない、もう少し患者の回復に迫るべき運動イメージを促す為のヒントを自分は感じた。
先にも述べたようにこの文献だけでは不十分なテーマである、しかしイメージを治療のツールとする上でいかにそれを理解し、使用できるかという事はこれからも追求しなければいけない課題でもある。そのきっかけとして紹介したい
2012年9月15日土曜日
あなたの患者になりたい
林 節也(岡崎共立病院)
題名「あなたの患者になりたい‐患者の視点で語る医療コミュニケーション‐」
佐伯晴子.医学書院.2003.
僕たちの仕事は、病気やけがなどで社会生活に支障を来たしてしまった患者に対して、様々な視点で関わる必要がある仕事だと思っています。そのためには、身体機能面や精神機能面、生活背景などといった患者を知ることで治療が円滑に進んでいくのだと思います。
患者とのコミュニケーションを図ることは僕たちの仕事ではとても大切なことです。それは、セラピスト皆が分かっている事であると思うし、意識していることだと思います。また、コミュニケーションを図る事で、患者との信頼関係を構築する事となり、心の許せる存在となり、それが内声を確認する事が出来るようにもなってくると思います。
文中では、医療従事者と患者との関係性についてどうあるべきかが書かれています。是非一読して頂ければ良いかと思いますが、私たち医療従事者にとっては病院が職場であるためごく当たり前の環境となっているが、患者にとっては特別な世界である事。不安だらけの生活において通じない専門用語。問診ではなかなか病状を説明出来ない事への不安など、患者の心の想いが多々書かれています。また、それを解決するために必要である事の一つにとして、医療従事者の表情や清潔さ、態度といったコミュニケーションを図り、信頼関係を築きあげることだと述べられています。
僕たちは患者さんを内部観察の視点からも関わっていきます。しかし、接触情報や身体の位置関係を「患者がどう認識しているのか・注意しているのか」といった評価の部分を観察していく前提には、患者との信頼関が構築されていなければ、患者も正直には意識経験を語る事が出来ず、治療に影響を与えてしまうのではないでしょうか?日常の何気ない振る舞いから患者との信頼関係を構築していかなければいけない。今一度患者との関係を改めようと思うきっかけとなった一冊です。
題名「あなたの患者になりたい‐患者の視点で語る医療コミュニケーション‐」
佐伯晴子.医学書院.2003.
僕たちの仕事は、病気やけがなどで社会生活に支障を来たしてしまった患者に対して、様々な視点で関わる必要がある仕事だと思っています。そのためには、身体機能面や精神機能面、生活背景などといった患者を知ることで治療が円滑に進んでいくのだと思います。
患者とのコミュニケーションを図ることは僕たちの仕事ではとても大切なことです。それは、セラピスト皆が分かっている事であると思うし、意識していることだと思います。また、コミュニケーションを図る事で、患者との信頼関係を構築する事となり、心の許せる存在となり、それが内声を確認する事が出来るようにもなってくると思います。
文中では、医療従事者と患者との関係性についてどうあるべきかが書かれています。是非一読して頂ければ良いかと思いますが、私たち医療従事者にとっては病院が職場であるためごく当たり前の環境となっているが、患者にとっては特別な世界である事。不安だらけの生活において通じない専門用語。問診ではなかなか病状を説明出来ない事への不安など、患者の心の想いが多々書かれています。また、それを解決するために必要である事の一つにとして、医療従事者の表情や清潔さ、態度といったコミュニケーションを図り、信頼関係を築きあげることだと述べられています。
僕たちは患者さんを内部観察の視点からも関わっていきます。しかし、接触情報や身体の位置関係を「患者がどう認識しているのか・注意しているのか」といった評価の部分を観察していく前提には、患者との信頼関が構築されていなければ、患者も正直には意識経験を語る事が出来ず、治療に影響を与えてしまうのではないでしょうか?日常の何気ない振る舞いから患者との信頼関係を構築していかなければいけない。今一度患者との関係を改めようと思うきっかけとなった一冊です。
