尾﨑 正典(尾張温泉かにえ病院)
最近、新聞に掲載されているリハビリに関する記事を読むと、どうも、現場にいるセラピストと患者との思いとは、かけ離れているように感じるのは私だけであろうか?
2014年11月8日の朝日新聞「買い物・畑仕事・・・・実践リハビリ」の中で、一部施設が取り組む先進的なリハビリは、まず暮らしの中でもう一度してみたいことを高齢者自身から聞く。医師や介護職員らと一緒に実現に向けた計画をたてる。「買い物をしたい」という人なら、単に足の筋力向上だけでなく、店でカートを押して歩く。陳列棚の配置を覚える、など実際の動きや手順にあわせた訓練もする。「畑仕事」が希望なら、低い台からの立ち上がり練習や屋外での歩行に加え、除草動作の反復練習をしてもらう。と書かれている。皆さんどう思われますか?患者の真の希望は、そう言った何かの動作がしたいということなのでしょうか?もう一度してみたいことを高齢者自身から聞くと書かれていますが、その方自身から聴くと言うのは重要なことですが、その動作が身体動作的にできるのであれば、もうすでに、やっているのではないでしょうか?その希望の動作が出来ない根本的な理由が一人一人あるはずです。
ある担当患者が、以前言われました、「動作の訓練はしなくていい、動かない身体を動くようにしてくれ、そうすれば、色々な動作ができるから」と。この言葉の捉え方は人それぞれあると思いますが、私はこの言葉こそ、障がいを持たれた方の真の願いなのではないかと思います。
2015年2月14日中日新聞「遠隔治療リハビリ提案」という記事には、「現在は慢性疾患の治療などに限定されている遠隔診療の対象をリハビリにも拡大。病院にいる医師と在宅の患者が映像や音声でやりとりし、医師が脈拍や呼吸などの情報を把握しながら、適切な診察や指導ができるようにする。その際、人型のロボットを使って、リハビリの具体的な動きなどを指導する。」と書かれている。ロボット技術が日進月歩で発展してきているのは、十分理解していますが、私たちが行っているリハビリテーションがはたして、人間ではなく、ロボットにできるのであろうか?少子高齢化で将来、人口が減少し、労働人口が減少していくから何とかしていかなければ、という政治的な考えを含んでの意味なのかもしれないし、そのようにロボットができるように技術を発展させていくという科学技術の発展を想定してのことであるかもしれない。様々な技術が人類のために発展していくことはうれしいことであるが、まだ、脳という身体の一部でさえ、すべて解明されておらず、人間が人間を治療するのも難解であるのに、人間が造るロボットが人間を治療できるのか?
安易な考えではないのか?と思ってしまったのは私だけであろうか?目に見えない心の世界との関わり、人間関係、家族関係、環境、経済、社会制度など、様々な情報をリハビリテーション治療の中でセラピストは考慮しながら治療を行っているのである。しかし、未来は誰にもわからない、そのような時代がすぐに来るのか、何十年、何百年かかるのかは分からない。
私たち、セラピストが行うリハビリテーションが新聞記事のように理解されているという事実があり、行政として動いている現実があることは理解しないといけない。
私たち、リハビリテーション専門家は、患者の真の願いに答えるため、さらなる学習を継続して行かなければならない。
現場にいて患者と直接向き合っているリハビリテーション専門家の立場で言わせて頂くと、人間のリハビリテーションは簡単なものではない。難しい。しかし、決して諦めてはいけない。諦める、諦めないを決めるのは医療者ではなく、最終的には患者自身である。
2015年2月17日火曜日
2015年2月1日日曜日
死生観について
荻野 敏(国府病院)
先日、久しぶりに所属する病院の院内勉強会で講義をする機会を得た。タイトルは「死生観について」。所属する病院では接遇委員会に属しており、様々な点から接遇を考えている。最近は、知・情・意から職業人としての自覚を持ち、研鑽していこうという観点から接遇委員会が院内勉強会の内容などを考えている。そして今年の一発目が「死生観について」だった。
自分が死ぬ。そのことを意識したことがあるだろうか?
そしてどうやって死ぬのが理想だろうか?
死を単に医学から見るのではなく、哲学や社会学などの領域から掘り下げてみた。皆さんはいったいいつの時点が死んだことになると思うだろうか?
普通は、心臓が止まり瞳孔が散瞳して・・・、というのが死だと考えるだろう。でも社会学的に心理学的に哲学的にそれを死とは言い切れない。
養老孟司さんは「一人称の死体」「二人称の死体」「三人称の死体」という概念を取り上げている。ジャンレケビッチの「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」とよく似ているが、「二人称の死体」とは「死体でない死体」だそうだ。つまり死体には見えないのだと。われわれの肉親や仲のよかった友人知人が亡くなって死体としてそこにいても、それは死体には見えず、「その人」そのものであることに変わりはないと。確かにそうだ。そうすると「あいつは俺たちの心の中に生きている」っといった言葉はまさに社会学的・心理学的・哲学的な死ではない。
死は、誰にでも必ず訪れる。人は致死率100%。そしてその死に様は生き様の集大成として現れる。放蕩ばかりしていた人の生き様とその死に様。家族に愛されて生きてきた人の生き様とその死に様。どちらがよい死に方になるのだろうか。少し考えればわかるだろう。とすると、生きることは死ぬことだし、死ぬことは生きることだ。
そして、事故死や突然死は死の準備をする時間もなく、突然やってくる。反対に癌などの疾患なら死の準備ができる。残された時間を有意義に使うことができると考えることもできる。
死ぬことは生きることであり、生きることは認知することだ。
死生観を考えることによって、生きることを見つめなおすことができ、環境と相対しながらまさに環境の中で生きている患者に向かい合うことができるような気がした。
しかし、今日もまた、悲痛なニュースが世界を駆け巡る。
あまりにも悲しい。
先日、久しぶりに所属する病院の院内勉強会で講義をする機会を得た。タイトルは「死生観について」。所属する病院では接遇委員会に属しており、様々な点から接遇を考えている。最近は、知・情・意から職業人としての自覚を持ち、研鑽していこうという観点から接遇委員会が院内勉強会の内容などを考えている。そして今年の一発目が「死生観について」だった。
自分が死ぬ。そのことを意識したことがあるだろうか?
そしてどうやって死ぬのが理想だろうか?
死を単に医学から見るのではなく、哲学や社会学などの領域から掘り下げてみた。皆さんはいったいいつの時点が死んだことになると思うだろうか?
普通は、心臓が止まり瞳孔が散瞳して・・・、というのが死だと考えるだろう。でも社会学的に心理学的に哲学的にそれを死とは言い切れない。
養老孟司さんは「一人称の死体」「二人称の死体」「三人称の死体」という概念を取り上げている。ジャンレケビッチの「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」とよく似ているが、「二人称の死体」とは「死体でない死体」だそうだ。つまり死体には見えないのだと。われわれの肉親や仲のよかった友人知人が亡くなって死体としてそこにいても、それは死体には見えず、「その人」そのものであることに変わりはないと。確かにそうだ。そうすると「あいつは俺たちの心の中に生きている」っといった言葉はまさに社会学的・心理学的・哲学的な死ではない。
死は、誰にでも必ず訪れる。人は致死率100%。そしてその死に様は生き様の集大成として現れる。放蕩ばかりしていた人の生き様とその死に様。家族に愛されて生きてきた人の生き様とその死に様。どちらがよい死に方になるのだろうか。少し考えればわかるだろう。とすると、生きることは死ぬことだし、死ぬことは生きることだ。
そして、事故死や突然死は死の準備をする時間もなく、突然やってくる。反対に癌などの疾患なら死の準備ができる。残された時間を有意義に使うことができると考えることもできる。
死ぬことは生きることであり、生きることは認知することだ。
死生観を考えることによって、生きることを見つめなおすことができ、環境と相対しながらまさに環境の中で生きている患者に向かい合うことができるような気がした。
しかし、今日もまた、悲痛なニュースが世界を駆け巡る。
あまりにも悲しい。
2015年1月16日金曜日
目標管理のヒント
井内 勲(岡崎共立病院)
2015年、新しい年を迎え目標も新たに掲げた方も多くいる事でしょう。誰しも前向きな気持ちで目標をたて、一年間だけでなくずっと生きていく。それはセラピストである我々であれ、不幸にも疾患を患っている患者であれ同じく前向きな気持ちにて臨んでいきたい、いってほしいと思う。
昨年のフィギュアスケートで、2月のソチオリンピックにて金メダルを見事に獲得した羽生結弦選手、一年の終わり12月のグランプリファイナルでもSPでは今シーズンの世界最高スコアをたたきだし、フリーでは自己ベスト。結果は2位以下に大差をつけて優勝し、日本男子で初めて大会2連覇を果たした。その羽生選手の昨シーズンの話題は周知であると思うが、決して一年を通して明るい話題ばかりではなかった。11月の中国杯では試合前の公式練習で他の選手と激突し、頭部とあごから流血をするほどのアクシデントに見舞われ、その影響もあってかNHK杯では4位と振るわず、GPファイナルもギリギリ6位で滑り込んだ。そんな中でのグランプリファイナル完全勝利に、彼の19歳とは思えない並外れた精神力と目標への信念を感じさせられた。
ケガ、衝突の恐怖というアクシデントから短い期間での復活。そんな彼の勝利に対する姿勢、精神力を垣間見た記事が『羽生結弦を支える独特なメンタリティー 尽きない勝利への欲求、FSへの気づき』スポーツナビ(yahoo)の中にあったので紹介する。
記事は彼のNHK杯SP後のメディアに対してのコメントからである。2連覇を目指すグランプリファイナルの出場権がかかった大会でありながら、SPを5位と悔しい演技で終えた後の彼が次なる課題への気づきまでを記者が考察した内容であった。全文はこの記事を検索して頂くと良いので割愛させてもらい、印象的な部分を以下に抜粋したい。
「メディア対応をしながら生まれた気づき」
「やってしまったなと。悔しい気持ちのみです。けがはほとんど回復してきていますし、違和感がないと言えばそれは違うのですが、良い感じにはなってきています。4回転だけではなく、3回転+3回転もミスしてしまいましたが、曲をかけているときに、ルッツとトウループが練習からうまく入っていなかったので、そこは自分の実力の問題だと思います。自己採点は30点ですね」
演技後、羽生は自身に対して厳しい言葉を並べた。しかし、それとは裏腹に取材対応が進んでいくと徐々に表情は和らいでいく。その理由を尋ねられると19歳の五輪王者は微笑みながらこう返した。
「(メディアの)皆さんとお話ししていたら、自分の課題が分かってきて、それがうれしくなったんです。ただ単に失敗して悔しいというのではなく、こうすれば良かったんだというのが見つかってきたので、すごく良い時間だったなと思っています」
多くの選手にとって、自身の望まない結果に終わったあとのメディア対応は苦痛以外の何ものでもないはずだ。しかし羽生はそれを嫌がらない。なぜなら「考えていることを言語化することで、頭の中がより整理されていくから」だ。もちろん何度も同じことを聞かれるのはきついときもあるだろうが、思いもよらぬ質問から、新たな視点が生まれることもある。
・・・略・・・
「悔しい感情はプラスになる」
・・・略・・・
「結局、自分の中で言い訳を作りやすかったんだと思います。練習もできていないからというね。だからこそ最終的にこういう結果(SPで5位)になってしまったんだと反省しています。6分間練習ではアナウンサーの声が聞こえたんです。その時点で集中が切れていましたね。曲がかかったときは集中していたと思うんですけど、そういうところが自分の甘さだと思います」
・・・略・・・
「悔しい感情はFSに向けてプラスになると思っています。練習してきたことを信じてやっていきたいです。FSはFSでまた違う演技ですし、昨季ともまったく違います。1試合1試合違うプログラムだという気持ちでやっていかないといけないと思っています」
・・・略・・・
どんなにふがいない結果に終わったとしても、羽生はその原因をあいまいにはごまかさない。あくまで強気な物言いで、自身を奮い立たせる。メディアの前でもしっかりと自分の考えを口にし、メディアを使って自身の考えを整理することさえある。根底にあるのは勝利への欲求だろう。五輪王者や、世界王者という肩書きは羽生にとって「重要なものではない」。ただ目の前の試合に勝ちたい。その強い気持ちが羽生を突き動かす原動力となっている。
それぞれの立場や環境、色々な状況もあり、これから目標を見つめ直したり、達成のための手段を再考する事もあると思う、また再考してもらう手助けをする場面もあるかと思う。彼の前向きなメンタリティー、逆境からの気づきを支える前向きな欲求は、自分達に投射してみるとこれからの一年の目標達成のヒントになるのではないだろうか。
2015年、新しい年を迎え目標も新たに掲げた方も多くいる事でしょう。誰しも前向きな気持ちで目標をたて、一年間だけでなくずっと生きていく。それはセラピストである我々であれ、不幸にも疾患を患っている患者であれ同じく前向きな気持ちにて臨んでいきたい、いってほしいと思う。
昨年のフィギュアスケートで、2月のソチオリンピックにて金メダルを見事に獲得した羽生結弦選手、一年の終わり12月のグランプリファイナルでもSPでは今シーズンの世界最高スコアをたたきだし、フリーでは自己ベスト。結果は2位以下に大差をつけて優勝し、日本男子で初めて大会2連覇を果たした。その羽生選手の昨シーズンの話題は周知であると思うが、決して一年を通して明るい話題ばかりではなかった。11月の中国杯では試合前の公式練習で他の選手と激突し、頭部とあごから流血をするほどのアクシデントに見舞われ、その影響もあってかNHK杯では4位と振るわず、GPファイナルもギリギリ6位で滑り込んだ。そんな中でのグランプリファイナル完全勝利に、彼の19歳とは思えない並外れた精神力と目標への信念を感じさせられた。
ケガ、衝突の恐怖というアクシデントから短い期間での復活。そんな彼の勝利に対する姿勢、精神力を垣間見た記事が『羽生結弦を支える独特なメンタリティー 尽きない勝利への欲求、FSへの気づき』スポーツナビ(yahoo)の中にあったので紹介する。
記事は彼のNHK杯SP後のメディアに対してのコメントからである。2連覇を目指すグランプリファイナルの出場権がかかった大会でありながら、SPを5位と悔しい演技で終えた後の彼が次なる課題への気づきまでを記者が考察した内容であった。全文はこの記事を検索して頂くと良いので割愛させてもらい、印象的な部分を以下に抜粋したい。
「メディア対応をしながら生まれた気づき」
「やってしまったなと。悔しい気持ちのみです。けがはほとんど回復してきていますし、違和感がないと言えばそれは違うのですが、良い感じにはなってきています。4回転だけではなく、3回転+3回転もミスしてしまいましたが、曲をかけているときに、ルッツとトウループが練習からうまく入っていなかったので、そこは自分の実力の問題だと思います。自己採点は30点ですね」
演技後、羽生は自身に対して厳しい言葉を並べた。しかし、それとは裏腹に取材対応が進んでいくと徐々に表情は和らいでいく。その理由を尋ねられると19歳の五輪王者は微笑みながらこう返した。
「(メディアの)皆さんとお話ししていたら、自分の課題が分かってきて、それがうれしくなったんです。ただ単に失敗して悔しいというのではなく、こうすれば良かったんだというのが見つかってきたので、すごく良い時間だったなと思っています」
多くの選手にとって、自身の望まない結果に終わったあとのメディア対応は苦痛以外の何ものでもないはずだ。しかし羽生はそれを嫌がらない。なぜなら「考えていることを言語化することで、頭の中がより整理されていくから」だ。もちろん何度も同じことを聞かれるのはきついときもあるだろうが、思いもよらぬ質問から、新たな視点が生まれることもある。
・・・略・・・
「悔しい感情はプラスになる」
・・・略・・・
「結局、自分の中で言い訳を作りやすかったんだと思います。練習もできていないからというね。だからこそ最終的にこういう結果(SPで5位)になってしまったんだと反省しています。6分間練習ではアナウンサーの声が聞こえたんです。その時点で集中が切れていましたね。曲がかかったときは集中していたと思うんですけど、そういうところが自分の甘さだと思います」
・・・略・・・
「悔しい感情はFSに向けてプラスになると思っています。練習してきたことを信じてやっていきたいです。FSはFSでまた違う演技ですし、昨季ともまったく違います。1試合1試合違うプログラムだという気持ちでやっていかないといけないと思っています」
・・・略・・・
どんなにふがいない結果に終わったとしても、羽生はその原因をあいまいにはごまかさない。あくまで強気な物言いで、自身を奮い立たせる。メディアの前でもしっかりと自分の考えを口にし、メディアを使って自身の考えを整理することさえある。根底にあるのは勝利への欲求だろう。五輪王者や、世界王者という肩書きは羽生にとって「重要なものではない」。ただ目の前の試合に勝ちたい。その強い気持ちが羽生を突き動かす原動力となっている。
それぞれの立場や環境、色々な状況もあり、これから目標を見つめ直したり、達成のための手段を再考する事もあると思う、また再考してもらう手助けをする場面もあるかと思う。彼の前向きなメンタリティー、逆境からの気づきを支える前向きな欲求は、自分達に投射してみるとこれからの一年の目標達成のヒントになるのではないだろうか。
2014年12月15日月曜日
仮説の立てるための知識について
若月 勇輝 ( 西尾病院 )
認知運動療法では科学的な考え方を取り入れ、問題仮説検証のループをたどりながら訓練を行っていく。臨床にて、自分が適切な問題点を抽出し、仮説を立てられているのか疑問に思うことがある。つまり、自分の行っている訓練が的外れなことをしているのではないかと疑ってしまうのである。適切な訓練が構築されるためには、様々な要因があると考えられる。その一つの要因に、仮説が適切でない可能性がある。仮説を立てるためには洗練された知識の選択と整理が必要と考えられる。今回は、私が考える仮説を立てるための知識について述べたいと思う。
臨床にて歩行観察から、問題点はこれではないかと仮説を立て、訓練的な評価を行い仮説が合っていたかどうかの検証をする。つまり問題点は仮説として立てられている。よって、問題点の抽出は仮説が適切に立てられなければ明確に提示できないと思われる。では仮説はどのように立てれば良いのだろうか、そもそも私たち臨床家は仮説をどのように立てているのだろうか、という疑問が湧いてくる。
もちろん外部観察や内部観察から仮説を立てるのは周知の事実である。仮説はセラピストが頭を使って考えることで生み出される。頭を使って考えるということは、自分が持っている知識を選択し整理するということになると思う。つまり、知識が適切でなければ、洗練された仮説は立てられないことなる。知識は教科書や論文、もしくは臨床家の経験、人から聞いた話になる。これらの情報は膨大である。ここで、セラピストは知識の選択を迫られる。つまり、この知識の選択を誤れば、誤った仮説が生まれてしまう。では、どのように知識を選択すれば良いのだろうか、そもそも私のような経験の浅いセラピストに適切な選択ができるのか、という疑問が湧いてくる。
現在の私の思考能力では選択できないことに気付く。これは絶望である。それと同時に患者さんにとっても絶望となる。絶望していても意味がないので私なりに至った結論は、とっても偉い人の話を聞くことにした。しかしながら、とっても偉い人は近くにはいないので直接聞くことはできない。よって、Perfetti先生の意見が書いてある書物を読むことにした。痛みであれば、まずMelzack先生の書物を読むことにした。認知症の痛みであれば、Scherder先生の書物を読むことにした。そして彼らが使用した参考文献を読むことにした。偉い人が参考にした論文は、偉い人が選択した論文ということなり、的外れな知識は得ることにはならないだろうと考えた。これにより、頻繁に引用される論文や、著者の名前を知ることになり、その著者の論文を読むようになった。
続いて、よく用いられている学会誌を知るようになった。頻繁に用いられる学会誌は、確からしい可能性があるため、読む学会誌を選択するようになった。
今度はこの学会誌の査読委員を見るようになった。レベルの高い学会誌の査読をしている人の論文であれば、的外れな知識とならないと考えた。
まとめると、
・ある分野の権威の論文を読む
・権威が使用している参考文献を読む
・頻繁に用いられる論文を読む
・レベルの高いであろう学会誌の論文を読む
・レベルの高いであろう学会誌の査読者の論文を読む
これが私の知識の選択の仕方である。いずれは、どのような状態で得られた知識であれ、自らの思考で選択していけるようになりたいと思っている。
疑問は問題として提示され、その問題点は仮説として立てられる。すべては疑問から始まるということを聞いたことがあるが、仮説を立ては知識の選択から始まるのではないかと思われる。選択を誤れば真の問題点にたどり着けない。真の問題点に早くたどり着けるセラピストを目指したい。
認知運動療法では科学的な考え方を取り入れ、問題仮説検証のループをたどりながら訓練を行っていく。臨床にて、自分が適切な問題点を抽出し、仮説を立てられているのか疑問に思うことがある。つまり、自分の行っている訓練が的外れなことをしているのではないかと疑ってしまうのである。適切な訓練が構築されるためには、様々な要因があると考えられる。その一つの要因に、仮説が適切でない可能性がある。仮説を立てるためには洗練された知識の選択と整理が必要と考えられる。今回は、私が考える仮説を立てるための知識について述べたいと思う。
臨床にて歩行観察から、問題点はこれではないかと仮説を立て、訓練的な評価を行い仮説が合っていたかどうかの検証をする。つまり問題点は仮説として立てられている。よって、問題点の抽出は仮説が適切に立てられなければ明確に提示できないと思われる。では仮説はどのように立てれば良いのだろうか、そもそも私たち臨床家は仮説をどのように立てているのだろうか、という疑問が湧いてくる。
もちろん外部観察や内部観察から仮説を立てるのは周知の事実である。仮説はセラピストが頭を使って考えることで生み出される。頭を使って考えるということは、自分が持っている知識を選択し整理するということになると思う。つまり、知識が適切でなければ、洗練された仮説は立てられないことなる。知識は教科書や論文、もしくは臨床家の経験、人から聞いた話になる。これらの情報は膨大である。ここで、セラピストは知識の選択を迫られる。つまり、この知識の選択を誤れば、誤った仮説が生まれてしまう。では、どのように知識を選択すれば良いのだろうか、そもそも私のような経験の浅いセラピストに適切な選択ができるのか、という疑問が湧いてくる。
現在の私の思考能力では選択できないことに気付く。これは絶望である。それと同時に患者さんにとっても絶望となる。絶望していても意味がないので私なりに至った結論は、とっても偉い人の話を聞くことにした。しかしながら、とっても偉い人は近くにはいないので直接聞くことはできない。よって、Perfetti先生の意見が書いてある書物を読むことにした。痛みであれば、まずMelzack先生の書物を読むことにした。認知症の痛みであれば、Scherder先生の書物を読むことにした。そして彼らが使用した参考文献を読むことにした。偉い人が参考にした論文は、偉い人が選択した論文ということなり、的外れな知識は得ることにはならないだろうと考えた。これにより、頻繁に引用される論文や、著者の名前を知ることになり、その著者の論文を読むようになった。
続いて、よく用いられている学会誌を知るようになった。頻繁に用いられる学会誌は、確からしい可能性があるため、読む学会誌を選択するようになった。
今度はこの学会誌の査読委員を見るようになった。レベルの高い学会誌の査読をしている人の論文であれば、的外れな知識とならないと考えた。
まとめると、
・ある分野の権威の論文を読む
・権威が使用している参考文献を読む
・頻繁に用いられる論文を読む
・レベルの高いであろう学会誌の論文を読む
・レベルの高いであろう学会誌の査読者の論文を読む
これが私の知識の選択の仕方である。いずれは、どのような状態で得られた知識であれ、自らの思考で選択していけるようになりたいと思っている。
疑問は問題として提示され、その問題点は仮説として立てられる。すべては疑問から始まるということを聞いたことがあるが、仮説を立ては知識の選択から始まるのではないかと思われる。選択を誤れば真の問題点にたどり着けない。真の問題点に早くたどり着けるセラピストを目指したい。
2014年12月2日火曜日
将来に望む臨床像
進藤 隆治(岡崎共立病院)
今回の臨床のヒントでは、将来に望む自分の臨床像について話しをしようと思う。
つい先月、鶴埜先生にお願いし千葉へ臨床見学に行く機会があった。
自分の臨床で足りないところや、何か自分に変えられないかといった漠然な想いを抱き、臨床見学へと伺ったしだいである。
色々と教えてもらうことができたが、今回は特に印象に残った3つのことを上げる。
①認知キットは職人の道具である(道具の特性についての理解)
訓練は患者に何かを教えるが為に行われるが、道具の特性を理解しておかなければどのように患者に教えられるかが判断できない。
②適切な姿勢・道具の配置ができなければ、認知課題そのものが意味のないものになってしまう
体幹・上肢・下肢の運動を制御していく際に動きだけ(特異的病理)に捕われるのでなく、固定される部位や相互作用する道具にも着目していなければならない。
認知過程を適切に導くような準備が必要である。
③日本人の場合はわかることから情報を構築していくことで、患者は自己の身体について語りやすくなる
わからないことを説明するのは日本人は苦手な部分があり、わかったことから情報と差異を確認していくことで、患者の思考は深くなる。
その他にも自分が被験者となり、訓練を体験したことで患者の視点から、環境との相互作用について考えを深めることができた。
この経験は自分にとって一つの道標になるであろう。
将来、自分の臨床が患者さんに「何を・なぜ・どのように教えるのか」が洗練されたものになっているように望んでいるし、そのなるように勉強していきたい。
最後に、認知神経リハビリテーション研究会理事の鶴埜先生に貴重な経験をさせて頂いたことに深く感謝したい。
今回の臨床のヒントでは、将来に望む自分の臨床像について話しをしようと思う。
つい先月、鶴埜先生にお願いし千葉へ臨床見学に行く機会があった。
自分の臨床で足りないところや、何か自分に変えられないかといった漠然な想いを抱き、臨床見学へと伺ったしだいである。
色々と教えてもらうことができたが、今回は特に印象に残った3つのことを上げる。
①認知キットは職人の道具である(道具の特性についての理解)
訓練は患者に何かを教えるが為に行われるが、道具の特性を理解しておかなければどのように患者に教えられるかが判断できない。
②適切な姿勢・道具の配置ができなければ、認知課題そのものが意味のないものになってしまう
体幹・上肢・下肢の運動を制御していく際に動きだけ(特異的病理)に捕われるのでなく、固定される部位や相互作用する道具にも着目していなければならない。
認知過程を適切に導くような準備が必要である。
③日本人の場合はわかることから情報を構築していくことで、患者は自己の身体について語りやすくなる
わからないことを説明するのは日本人は苦手な部分があり、わかったことから情報と差異を確認していくことで、患者の思考は深くなる。
その他にも自分が被験者となり、訓練を体験したことで患者の視点から、環境との相互作用について考えを深めることができた。
この経験は自分にとって一つの道標になるであろう。
将来、自分の臨床が患者さんに「何を・なぜ・どのように教えるのか」が洗練されたものになっているように望んでいるし、そのなるように勉強していきたい。
最後に、認知神経リハビリテーション研究会理事の鶴埜先生に貴重な経験をさせて頂いたことに深く感謝したい。
2014年11月16日日曜日
可能性
首藤 康聡(岡崎南病院)
寝たきりの患者K
その役目を忘れてしまった、右の手に触れるとぎゅっと強く手を握りしめ硬直してしまう。
ただただ手にそっと触れる日々を数週間過ごすとKの手は僕の手を柔らかく受け入れてくれた。
初めは、強くぎゅっと固まったままだったその手は少し柔らかさを取り戻してきた。
少しだけ柔らかさを取り戻した手をそっとKの唇に触れさせてみたが何も起きなかった。
ただただKの唇に手をそっと触れさせる日々を数週間続けると少しだけその唇から音が聞こえた。
その音は唸り声のようにも聞こえたが確かにKの唇が紡ぎだした音だった。
ほんのわずかでもKは自分の身体を、そして声を取り戻したのかもしれない。
認知症の患者S
その左下肢は歩くたびにくねくねと身体を支える役割を放棄し、身体は左へ傾いていた。
Sはその異常に気づかず、いつも「足はしっかりしてる」「身体はまっすぐ」としか答えない。
数週間、左下肢と体幹への質問をSに投げかけ続けた。時にはSに怒り口調で返答されもした。
でもSの身体について問い続けると「足がちょっとふらふらする」「身体が傾いてる」と・・・
ある日、Sの身体は傾くことなくまっすぐに力強く前を向いた。
まだ歩行に変化はない。ただ少し変化へのきっかけはつかめるかもしれない。
意識障害と診断された患者T
意識障害と診断された視床出血の患者T。紹介状には回復は困難と書かれてあった・・・
病室に行き、ひょっとしたら聞こえてないかもしれないと思いながら挨拶を済ませた。
とりあえず、その手をそっと握るとわずかに握り返してくれた。
手を触れているのがわかるのか問いかけると、またそっと手を握り返した。
可能性があるかもしれない。そう思った瞬間だった。
そこから数ヶ月、Tと今日まで一歩一歩ゆっくりと、しかし確実に歩んできた。
そして今日、Tは15分間一人で座り続けた。僕とTは思わずにやけてしまった。
全ての患者には可能性がある。
脳の可塑性の可能性。
その可能性に挑戦し続けるセラピストに私はなりたい。
寝たきりの患者K
その役目を忘れてしまった、右の手に触れるとぎゅっと強く手を握りしめ硬直してしまう。
ただただ手にそっと触れる日々を数週間過ごすとKの手は僕の手を柔らかく受け入れてくれた。
初めは、強くぎゅっと固まったままだったその手は少し柔らかさを取り戻してきた。
少しだけ柔らかさを取り戻した手をそっとKの唇に触れさせてみたが何も起きなかった。
ただただKの唇に手をそっと触れさせる日々を数週間続けると少しだけその唇から音が聞こえた。
その音は唸り声のようにも聞こえたが確かにKの唇が紡ぎだした音だった。
ほんのわずかでもKは自分の身体を、そして声を取り戻したのかもしれない。
認知症の患者S
その左下肢は歩くたびにくねくねと身体を支える役割を放棄し、身体は左へ傾いていた。
Sはその異常に気づかず、いつも「足はしっかりしてる」「身体はまっすぐ」としか答えない。
数週間、左下肢と体幹への質問をSに投げかけ続けた。時にはSに怒り口調で返答されもした。
でもSの身体について問い続けると「足がちょっとふらふらする」「身体が傾いてる」と・・・
ある日、Sの身体は傾くことなくまっすぐに力強く前を向いた。
まだ歩行に変化はない。ただ少し変化へのきっかけはつかめるかもしれない。
意識障害と診断された患者T
意識障害と診断された視床出血の患者T。紹介状には回復は困難と書かれてあった・・・
病室に行き、ひょっとしたら聞こえてないかもしれないと思いながら挨拶を済ませた。
とりあえず、その手をそっと握るとわずかに握り返してくれた。
手を触れているのがわかるのか問いかけると、またそっと手を握り返した。
可能性があるかもしれない。そう思った瞬間だった。
そこから数ヶ月、Tと今日まで一歩一歩ゆっくりと、しかし確実に歩んできた。
そして今日、Tは15分間一人で座り続けた。僕とTは思わずにやけてしまった。
全ての患者には可能性がある。
脳の可塑性の可能性。
その可能性に挑戦し続けるセラピストに私はなりたい。
2014年11月2日日曜日
判断力・直観力
佐藤 郁江(岡崎南病院)
判断力・直観力
ニュートン別冊シリーズ 記憶力、直観力、発想力、天才脳など 脳力のしくみ(2014)
この本にはいろいろと記憶力なども書かれているが、私は直観力が気になって手に取りました。脳の判断する時には「情報を分散して同時並行的に処理する。非常に複雑でとらえがたい処理方法なのである。また、私たちの意識にのぼる脳の活動は、全体の活動のほんの一握りだと考えられている、そして自覚できない脳の活動は、私たちが意識的に決めたと思っている行動や意志にも、影響をあたえているという」と書かれていました。当たり前のことなのかもしれませんが、本人にも行動のすべてを理解して行っているのではなく、なんとなく行っていることが多くあると思われます。ただ、これをすべて処理しようとしていくと、行動はできなくなってしまうと考えられます。しかし、何らかの処理が行われている時点でその人その人の行動の様子が変化することがあり、意識されていない部分が沢山あるということを知っておかなければならないと考えられます。私はこの意識されていない部分がなんなのかと考えていたときに、この直観のしくみの中に棋士の脳の直感が書かれ「楔前部」の大きな活動が大きく見られているとありました。「楔前部は視覚的、空間的に物をとらえたり、個人的な経験を思い出したりするときに活動する場所である」とありました。もちろん棋士にとっての直感を調べていることであり、視覚的、空間的の要素が大きくかかわってきているのかもしれません。しかし、個人的な経験を思い出したりするときに活動するということは過去の経験をもとに、直観を使っているという部分の証拠の一つになるのではないかと考えました。そして、この過去の経験はその人にとって意味のあるものでなければならないと感じています。
判断力・直観力
ニュートン別冊シリーズ 記憶力、直観力、発想力、天才脳など 脳力のしくみ(2014)
この本にはいろいろと記憶力なども書かれているが、私は直観力が気になって手に取りました。脳の判断する時には「情報を分散して同時並行的に処理する。非常に複雑でとらえがたい処理方法なのである。また、私たちの意識にのぼる脳の活動は、全体の活動のほんの一握りだと考えられている、そして自覚できない脳の活動は、私たちが意識的に決めたと思っている行動や意志にも、影響をあたえているという」と書かれていました。当たり前のことなのかもしれませんが、本人にも行動のすべてを理解して行っているのではなく、なんとなく行っていることが多くあると思われます。ただ、これをすべて処理しようとしていくと、行動はできなくなってしまうと考えられます。しかし、何らかの処理が行われている時点でその人その人の行動の様子が変化することがあり、意識されていない部分が沢山あるということを知っておかなければならないと考えられます。私はこの意識されていない部分がなんなのかと考えていたときに、この直観のしくみの中に棋士の脳の直感が書かれ「楔前部」の大きな活動が大きく見られているとありました。「楔前部は視覚的、空間的に物をとらえたり、個人的な経験を思い出したりするときに活動する場所である」とありました。もちろん棋士にとっての直感を調べていることであり、視覚的、空間的の要素が大きくかかわってきているのかもしれません。しかし、個人的な経験を思い出したりするときに活動するということは過去の経験をもとに、直観を使っているという部分の証拠の一つになるのではないかと考えました。そして、この過去の経験はその人にとって意味のあるものでなければならないと感じています。
