2011年11月15日火曜日

書いてみなければわからない

荻野 敏(国府病院)

新潮CD小林秀雄講演【第八巻】
宣長の学問 CD-1 1「書いてみなければわからない」
新潮社

皆さんは小林秀雄という人の名前を聞いたことがあるだろうか。聞いたことがないと思った人は、このホームページをしっかり見ていないということになる。愛知県認知運動療法研究会のホームページ左下に書かれている『美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない』という言葉は小林秀雄の「当麻」という随筆の中の一節だ。さて、今回の臨床のヒントにその小林秀雄のCDブック講演集を取り上げてみたい。ファンとまでは言えないかもしれが、僕は小林秀雄から少なくとも影響を受けていることは間違いない。脳科学や教育者の本を読んでいると、よくこの小林秀雄という人物の名前が出てくる。初めはそんなに興味もなかったが、「モオツァルト・無常という事」(新潮社)を読んで、もっと知りたくなったのだ。1929年に東京に生まれ、独創的な批評活動を行い、日本の現代文学における批評家としての価値を確立した人物である。1983年に没するまで、多くの執筆物を刊行している。もちろん、すでに亡くなっている方なので、講演を聞きに行くことはできない。しかし、新潮社からCDブックが出ていることを知り、数年前に第一巻から第七巻まで全巻揃えて大人買いをしたのだ。1巻にCDが2枚入っている。すべてのCDを自家用車のHDDに入れて、よく聞いている。ベルグソンやユングの話は秀逸だ。最近、第八巻が刊行されたので、聞いているところである。

さて、話に戻ろう。最近買った第八巻「宣長の学問」というCDの1番目に「書いてみなければわからない」というタイトルがついた講演がある。この講演は昭和40年11月27日、つまり今からざっと46年前に國學院大學大講堂にて、國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所主催「秋季学術講演会」で行われた講演『雑感』を収録したものだ。はじめは淡々と、ユーモアを加えながら語りだしていくが、少し経つと言葉に勢いが組み込まれて聴衆に問いかけるように迫ってくる。その声の迫力に圧倒されそうになる。

「これ書かないと書かないんですね。書かないと書かないってことはつまりね、頭の中でこういう風なものを書こうという観念が出来上がれば書こうなんて思ってたら一生書かないんです。だからとにかく書いてみるんです。とにかく書いてみると、書いた自分の文章から何かが今度は出てくる。という風なことだからとにかく書いてみようと思って書き出したわけです。だからこれはどうなるかわからんです」

講演の一部分を抜粋してみた。あくまでこの講演は文章を書く、執筆をするという事が主題になっているが、見方を変えると僕らへの批評にもとれる。僕はどう聞き取ったかというと、認知運動療法を行う場合に躊躇いがどうしても出てくることがある。「こんなことをして患者に怒られないだろうか」「こんな解釈や仮説でいいのだろか」「もう少しここについて勉強してからやったほうがいいだろうか」と。これは誰に対しての戸惑いだろう。患者?スタッフ?いや自分でしょ。結局、自分が一番かわいいから、どうしても後回しにしてしまう。それでいいのだろうか。セラピストしての最大限の知識を動員して出した病態仮説・治療仮説ならなぜそれを確かめないのか。イタリアでもボルシスタが立てた仮説を、パンテ先生をはじめとするセラピストは「facciamo verificare(検証してみましょう)」と、道具を使って訓練を実践していた。そこで患者が上手く知覚仮説を立てることができて解答できたなら、その病態仮説は間違っていたことになる。上手く解答できなければ、そこに問題がある可能性が高くなる。さらに精度を高めて・・・・。とディスカッションをしながらどんどん訓練を進めて構築していく。その臨床風景は美しかった。研究者には研究者の役割が、教育者には教育者の役割がある。臨床家に求められているものは何か。『とにかく実践してみる。実践してみるとそこから何かが出てくる。だからとにかく実践してみよう』と小林秀雄が言っているような気がしてならない。変にスマートになる必要はないのではないか。「もっといい方法がないだろうか」「どうしてなんだろう」と、泥臭く、ジタバタしながら、悩み、足掻き、資料を調べながらディスカッションをしている、そんな姿の臨床家の方が僕は美しいと思う。

全部入れるとCDが16枚分。単純に計算すると16時間ぐらいの講演を聞くことができる。文字を読んで、著者の心持ちを想像しながら読み込むのももちろん良いが、たまには偉人の肉声をライブ感覚で聞くことも一味違って良い。肉声から響き渡る、感情の起伏、声のトーンや大きさ、間の感覚や息遣いを感じてみてほしい。そして一緒に悩みましょう。

2011年11月3日木曜日

ことばが生まれる基盤とは

井内 勲(岡崎共立病院)

『ことばが生まれる基盤とは』  松井智子:著 科学77(6), 70-78. (2007):岩波書店

人間だけでなく霊長類の多くは、音声やジェスチャーを使ってコミュニケーションをする。しかし、情報伝達の方法としてコミュニケーションに言語を獲得し、使用しているのはその中でヒトだけである。この論文において著者は専門とする語用論(言語表現とそれを用いる使用者や文脈との関係を研究する分野)から、とくにヒトのコミュニケーションのメカニズムとその発達研究に焦点を当てる事により、著者は我々の言語が「伝達意図を理解する能力」を基盤として生まれたのかもしれないと述べている。

自分は小児の言語発達と、自閉症について知りたくこの論文を読み出した。確かにことばの発達、二項関係から三項関係のコミュニケーションでの伝達意図の理解など、全般として、1歳~3,4歳の発達研究として思慮深く読み進めた。しかしそれだけでなく、我々が治療の中で使うことば、患者が使う、もしくは使う事が出来ない、使いたくても使えないことばの奥を知る手がかりになるかもしれないと感じた。

「人間のコミュニケーションにおいて、言葉の理解は重要な役割を果たすが、コミュニケーションの最終的な目的は、話し手が伝えようとしている意図、欲求、思考、態度、感情など、言葉の意味以上の内容を聞き手が理解する事で、言葉はそれを見つけ出す手がかりに過ぎない。」

「コミュニケーションで文脈を理解するには、話し手がかなりの手がかりを提供している、それは言葉であったり、声のトーンであったり、表情であったする。加えて、もうひとつ大きな手がかりは、(略)話し手は聞き手の注意を引く。この行為が、無限にありそうな文脈を絞りこむのに重要な役割を果たすと考えられる。」

自分自身、治療を進める段階においてまだまだ上手く紐解けない部分であるが、挑戦したい。