2012年5月15日火曜日

脳卒中後アパシー

進藤 隆治(国府病院)

脳卒中後アパシー
筆者:小林 祥泰
機関名:神経心理学2011 Vol.27 No.3 220-226

訓練での片麻痺患者の記述において感覚的・認知的な要素と比べ現象学的な要素が少ないことを経験する。そのことに対し私は日本人特有の文化的背景から現象学記述が少ないことは仕方がないことだと自分の中で決め付けていた。そんななか、この論文を読み考えたことを書きたいと思う。

まず論文の内容を簡単に紹介すると、脳卒中後の「アパシー」と「うつ」の症状を分けて考えるべきだというものであった。アパシーとは便宜的には感受性、感情、関心の欠如と定義されており、その背景からなる機序には3つのサブタイプがある。1つ目は喜怒哀楽といった情動と、より高度な感情の連携過程の破綻であり、眼窩内側前頭前野皮質もしくは線条体、淡蒼球腹側の辺縁系の病変に関連する。2つ目は認知処理過程分断による計画策定等の実行機能の低下で背外側前頭前野皮質と、関連する背側尾状核(背外側前頭前野神経回路)の病変と関連している。3つ目は自動的賦活化過程の障害により自ら発想することや自発的な行動が障害されるが外的駆動による行動は保たれるもので、もっとも重度のアパシー(精神的無動)を呈し、両側前頭前野や両側淡蒼球病変によって生じやすいとしている。アパシーは障害受容の際にみられる「うつ状態」とは全く異なった病態であり、独立して存在するものである。

司令塔としての働きがある前頭前野の機能低下から生じるアパシーは、現象学的要素や志向性の問題にも関わってくると推測される。つまり、障害を持つことで感受性、感情、関心の欠如といった問題がでてくると言える。これは自分の中で大きな気づきであると思った。文化的背景から日本人は感情を言葉にできないといった理由ではなく、脳の器質的な問題により言葉にすることが難しいという理由があったからである。このことからイタリアでは文化的背景から現象学的要素を引き出す工夫をされていたといえ、日本特有の文化的背景から工夫ができれば、日本人も現象学的な要素を含めた身体の記述を語ることができるのではないかと思う。(あくまでも仮説である)

私のなかでは現象学的要素は重要だと認識しながらも、現状はなかなか訓練では活用できていない。しかし、セラピストの考えしだいで工夫できることはただあると考えられるので、これらを意識して患者と対話していきたいと思う。

2012年5月1日火曜日

臨床家の日常

首藤 康聡(岡崎南病院)

今日は大阪の勉強会に参加した帰路での出来事について書きたいと思います。会場から電車を乗り継いで新大阪駅で降車した時のことです。別に普通に電車を降りて階段に向かって歩き始めたんですがその時、僕は衝撃的なことに気がつきました。乗ってきた電車が進行方向に対して右に傾いていたんです。そして、その時なぜか僕はホームが斜めになってるから電車が傾いて見えるんだと思ってしまい、その瞬間に地面が傾いているように錯覚してしまったんです。そして、その瞬間に僕は足がふらついてしまいました。現実との乖離が生じてふらついてしまったんだと思いますが、ここで「はっ!」としたんです。

振動刺激による運動の錯覚やラバーハンド錯覚、幽体離脱などが有名ですが、錯覚は情報の矛盾によって生じるものとされています。このような場合、その瞬間の感覚の矛盾により錯覚が生じます。ですが、今回の場合はちょっと違います。地面が傾いている錯覚を感じた瞬間は床の水平性もそれに対する僕の下肢も適切な相互作用を行っていたはずです。なのになぜ僕はホームが斜めになっていると錯覚し足がもつれてしまったのでしょうか?

ここでこの時の僕を整理して見たいと思います。
①僕は電車が斜めであった事に気づかず電車に乗っていた。
②水平と思っていた電車(実際は斜め)から水平のホームに降りたった。
③普通に歩いている時に斜めになっている電車に気がついた。
④電車が斜めになっているのを見たが、斜めになっているのは電車ではなくホームだと思ってしまった。
⑤ホームが斜め(実は水平)になっていると錯覚してしまい、下肢と床の関係性が不適切になってしまったので、足がもつれてしまった。

以上の5項目が大きな流れです。この中で足がもつれた原因はどこでしょうか?一見、⑤の錯覚が原因のように思えますし、④が原因のようにも思えます。さて④でしょうかそれとも⑤でしょうか?皆さんは何番だと思いますか?実は④と⑤は原因にはなり得ないんです。⑤については錯覚が原因で足がもつれたのではないかとい方がいらっしゃると思います。確かに錯覚の結果、足がもつれているので原因のように思いますが、錯覚は現象にすぎませんし、その理由が存在します。つまりこの部分だけをピックアップして考えてみると、錯覚という一つの現象は足がもつれるという次の現象を生み出したと解釈できるからです。④については錯覚を作るきっかけになりました。確かに僕はホームが斜めになっていると勘違いしてしまったのですからこれが原因のようにも思えます。しかし、これも勘違いしてしまった原因があるはずです。ここでもまだ、勘違いという現象が出現した段階でただきっかけを作ったにすぎません。ですから原因にはなり得ないんです。

ここでの原因は①だと僕は思います。僕が電車は水平だと勘違いしたことがきっかけですべてのことの始まりなんです。

僕の内部世界では電車は水平だったんです。だけどホームからみた電車の傾きは僕にとっては矛盾した答えだったんです。電車が水平であるという僕の間違えた記憶を皮質は信じてくれてなんとかその矛盾した主張を通そうとします。主張を通すために脳はホームが斜めになっていると強引に情報を作ってしまったのです。それが足をもつれさせるといった結果につながったんだと思います。ハッとした点はこの点なんですが、数秒前の電車が水平だったという僕の記憶が錯覚を作ってしまったということなんです。時間のズレを伴った錯覚の出現って面白くないですか?

さて、一見、原因であると思われることも実は原因ではなく現象である場合があります。それが今回のことでよくわかりました。臨床も同じです。試行錯誤して原因にたどり着いた時、安堵してからもう一度考えて見ませんか?そうするとその裏に隠された原因にたどり着くかもしれません。思考の循環。最も基本で最も難しいことなのかもしれませんが、日常の生活の中で気づくこともあります。皆さんも日常の中でふと臨床に結びつくことが浮かんできたりしませんか?いかがでしょう。皆さんの臨床のヒントを教えていただけませんか?投稿お待ちしています。