2015年2月17日火曜日

リハビリ新聞記事について

尾﨑 正典(尾張温泉かにえ病院)  

最近、新聞に掲載されているリハビリに関する記事を読むと、どうも、現場にいるセラピストと患者との思いとは、かけ離れているように感じるのは私だけであろうか?

2014年11月8日の朝日新聞「買い物・畑仕事・・・・実践リハビリ」の中で、一部施設が取り組む先進的なリハビリは、まず暮らしの中でもう一度してみたいことを高齢者自身から聞く。医師や介護職員らと一緒に実現に向けた計画をたてる。「買い物をしたい」という人なら、単に足の筋力向上だけでなく、店でカートを押して歩く。陳列棚の配置を覚える、など実際の動きや手順にあわせた訓練もする。「畑仕事」が希望なら、低い台からの立ち上がり練習や屋外での歩行に加え、除草動作の反復練習をしてもらう。と書かれている。皆さんどう思われますか?患者の真の希望は、そう言った何かの動作がしたいということなのでしょうか?もう一度してみたいことを高齢者自身から聞くと書かれていますが、その方自身から聴くと言うのは重要なことですが、その動作が身体動作的にできるのであれば、もうすでに、やっているのではないでしょうか?その希望の動作が出来ない根本的な理由が一人一人あるはずです。

ある担当患者が、以前言われました、「動作の訓練はしなくていい、動かない身体を動くようにしてくれ、そうすれば、色々な動作ができるから」と。この言葉の捉え方は人それぞれあると思いますが、私はこの言葉こそ、障がいを持たれた方の真の願いなのではないかと思います。

2015年2月14日中日新聞「遠隔治療リハビリ提案」という記事には、「現在は慢性疾患の治療などに限定されている遠隔診療の対象をリハビリにも拡大。病院にいる医師と在宅の患者が映像や音声でやりとりし、医師が脈拍や呼吸などの情報を把握しながら、適切な診察や指導ができるようにする。その際、人型のロボットを使って、リハビリの具体的な動きなどを指導する。」と書かれている。ロボット技術が日進月歩で発展してきているのは、十分理解していますが、私たちが行っているリハビリテーションがはたして、人間ではなく、ロボットにできるのであろうか?少子高齢化で将来、人口が減少し、労働人口が減少していくから何とかしていかなければ、という政治的な考えを含んでの意味なのかもしれないし、そのようにロボットができるように技術を発展させていくという科学技術の発展を想定してのことであるかもしれない。様々な技術が人類のために発展していくことはうれしいことであるが、まだ、脳という身体の一部でさえ、すべて解明されておらず、人間が人間を治療するのも難解であるのに、人間が造るロボットが人間を治療できるのか?

安易な考えではないのか?と思ってしまったのは私だけであろうか?目に見えない心の世界との関わり、人間関係、家族関係、環境、経済、社会制度など、様々な情報をリハビリテーション治療の中でセラピストは考慮しながら治療を行っているのである。しかし、未来は誰にもわからない、そのような時代がすぐに来るのか、何十年、何百年かかるのかは分からない。

私たち、セラピストが行うリハビリテーションが新聞記事のように理解されているという事実があり、行政として動いている現実があることは理解しないといけない。

私たち、リハビリテーション専門家は、患者の真の願いに答えるため、さらなる学習を継続して行かなければならない。

現場にいて患者と直接向き合っているリハビリテーション専門家の立場で言わせて頂くと、人間のリハビリテーションは簡単なものではない。難しい。しかし、決して諦めてはいけない。諦める、諦めないを決めるのは医療者ではなく、最終的には患者自身である。

2015年2月1日日曜日

死生観について

荻野 敏(国府病院)

先日、久しぶりに所属する病院の院内勉強会で講義をする機会を得た。タイトルは「死生観について」。所属する病院では接遇委員会に属しており、様々な点から接遇を考えている。最近は、知・情・意から職業人としての自覚を持ち、研鑽していこうという観点から接遇委員会が院内勉強会の内容などを考えている。そして今年の一発目が「死生観について」だった。

自分が死ぬ。そのことを意識したことがあるだろうか?

そしてどうやって死ぬのが理想だろうか?

死を単に医学から見るのではなく、哲学や社会学などの領域から掘り下げてみた。皆さんはいったいいつの時点が死んだことになると思うだろうか?

普通は、心臓が止まり瞳孔が散瞳して・・・、というのが死だと考えるだろう。でも社会学的に心理学的に哲学的にそれを死とは言い切れない。

養老孟司さんは「一人称の死体」「二人称の死体」「三人称の死体」という概念を取り上げている。ジャンレケビッチの「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」とよく似ているが、「二人称の死体」とは「死体でない死体」だそうだ。つまり死体には見えないのだと。われわれの肉親や仲のよかった友人知人が亡くなって死体としてそこにいても、それは死体には見えず、「その人」そのものであることに変わりはないと。確かにそうだ。そうすると「あいつは俺たちの心の中に生きている」っといった言葉はまさに社会学的・心理学的・哲学的な死ではない。

死は、誰にでも必ず訪れる。人は致死率100%。そしてその死に様は生き様の集大成として現れる。放蕩ばかりしていた人の生き様とその死に様。家族に愛されて生きてきた人の生き様とその死に様。どちらがよい死に方になるのだろうか。少し考えればわかるだろう。とすると、生きることは死ぬことだし、死ぬことは生きることだ。

そして、事故死や突然死は死の準備をする時間もなく、突然やってくる。反対に癌などの疾患なら死の準備ができる。残された時間を有意義に使うことができると考えることもできる。

死ぬことは生きることであり、生きることは認知することだ。

死生観を考えることによって、生きることを見つめなおすことができ、環境と相対しながらまさに環境の中で生きている患者に向かい合うことができるような気がした。

しかし、今日もまた、悲痛なニュースが世界を駆け巡る。

あまりにも悲しい。