2014年12月15日月曜日

仮説の立てるための知識について

若月 勇輝 ( 西尾病院 )

認知運動療法では科学的な考え方を取り入れ、問題仮説検証のループをたどりながら訓練を行っていく。臨床にて、自分が適切な問題点を抽出し、仮説を立てられているのか疑問に思うことがある。つまり、自分の行っている訓練が的外れなことをしているのではないかと疑ってしまうのである。適切な訓練が構築されるためには、様々な要因があると考えられる。その一つの要因に、仮説が適切でない可能性がある。仮説を立てるためには洗練された知識の選択と整理が必要と考えられる。今回は、私が考える仮説を立てるための知識について述べたいと思う。

臨床にて歩行観察から、問題点はこれではないかと仮説を立て、訓練的な評価を行い仮説が合っていたかどうかの検証をする。つまり問題点は仮説として立てられている。よって、問題点の抽出は仮説が適切に立てられなければ明確に提示できないと思われる。では仮説はどのように立てれば良いのだろうか、そもそも私たち臨床家は仮説をどのように立てているのだろうか、という疑問が湧いてくる。

もちろん外部観察や内部観察から仮説を立てるのは周知の事実である。仮説はセラピストが頭を使って考えることで生み出される。頭を使って考えるということは、自分が持っている知識を選択し整理するということになると思う。つまり、知識が適切でなければ、洗練された仮説は立てられないことなる。知識は教科書や論文、もしくは臨床家の経験、人から聞いた話になる。これらの情報は膨大である。ここで、セラピストは知識の選択を迫られる。つまり、この知識の選択を誤れば、誤った仮説が生まれてしまう。では、どのように知識を選択すれば良いのだろうか、そもそも私のような経験の浅いセラピストに適切な選択ができるのか、という疑問が湧いてくる。

現在の私の思考能力では選択できないことに気付く。これは絶望である。それと同時に患者さんにとっても絶望となる。絶望していても意味がないので私なりに至った結論は、とっても偉い人の話を聞くことにした。しかしながら、とっても偉い人は近くにはいないので直接聞くことはできない。よって、Perfetti先生の意見が書いてある書物を読むことにした。痛みであれば、まずMelzack先生の書物を読むことにした。認知症の痛みであれば、Scherder先生の書物を読むことにした。そして彼らが使用した参考文献を読むことにした。偉い人が参考にした論文は、偉い人が選択した論文ということなり、的外れな知識は得ることにはならないだろうと考えた。これにより、頻繁に引用される論文や、著者の名前を知ることになり、その著者の論文を読むようになった。

続いて、よく用いられている学会誌を知るようになった。頻繁に用いられる学会誌は、確からしい可能性があるため、読む学会誌を選択するようになった。

今度はこの学会誌の査読委員を見るようになった。レベルの高い学会誌の査読をしている人の論文であれば、的外れな知識とならないと考えた。

まとめると、
・ある分野の権威の論文を読む
・権威が使用している参考文献を読む
・頻繁に用いられる論文を読む
・レベルの高いであろう学会誌の論文を読む
・レベルの高いであろう学会誌の査読者の論文を読む

これが私の知識の選択の仕方である。いずれは、どのような状態で得られた知識であれ、自らの思考で選択していけるようになりたいと思っている。

疑問は問題として提示され、その問題点は仮説として立てられる。すべては疑問から始まるということを聞いたことがあるが、仮説を立ては知識の選択から始まるのではないかと思われる。選択を誤れば真の問題点にたどり着けない。真の問題点に早くたどり着けるセラピストを目指したい。

2014年12月2日火曜日

将来に望む臨床像

進藤 隆治(岡崎共立病院)

今回の臨床のヒントでは、将来に望む自分の臨床像について話しをしようと思う。

つい先月、鶴埜先生にお願いし千葉へ臨床見学に行く機会があった。

自分の臨床で足りないところや、何か自分に変えられないかといった漠然な想いを抱き、臨床見学へと伺ったしだいである。

色々と教えてもらうことができたが、今回は特に印象に残った3つのことを上げる。

①認知キットは職人の道具である(道具の特性についての理解)
訓練は患者に何かを教えるが為に行われるが、道具の特性を理解しておかなければどのように患者に教えられるかが判断できない。

②適切な姿勢・道具の配置ができなければ、認知課題そのものが意味のないものになってしまう
体幹・上肢・下肢の運動を制御していく際に動きだけ(特異的病理)に捕われるのでなく、固定される部位や相互作用する道具にも着目していなければならない。
認知過程を適切に導くような準備が必要である。

③日本人の場合はわかることから情報を構築していくことで、患者は自己の身体について語りやすくなる
わからないことを説明するのは日本人は苦手な部分があり、わかったことから情報と差異を確認していくことで、患者の思考は深くなる。

その他にも自分が被験者となり、訓練を体験したことで患者の視点から、環境との相互作用について考えを深めることができた。

この経験は自分にとって一つの道標になるであろう。

将来、自分の臨床が患者さんに「何を・なぜ・どのように教えるのか」が洗練されたものになっているように望んでいるし、そのなるように勉強していきたい。

最後に、認知神経リハビリテーション研究会理事の鶴埜先生に貴重な経験をさせて頂いたことに深く感謝したい。

2014年11月16日日曜日

可能性

首藤 康聡(岡崎南病院)

寝たきりの患者K
その役目を忘れてしまった、右の手に触れるとぎゅっと強く手を握りしめ硬直してしまう。
ただただ手にそっと触れる日々を数週間過ごすとKの手は僕の手を柔らかく受け入れてくれた。
初めは、強くぎゅっと固まったままだったその手は少し柔らかさを取り戻してきた。
少しだけ柔らかさを取り戻した手をそっとKの唇に触れさせてみたが何も起きなかった。
ただただKの唇に手をそっと触れさせる日々を数週間続けると少しだけその唇から音が聞こえた。
その音は唸り声のようにも聞こえたが確かにKの唇が紡ぎだした音だった。
ほんのわずかでもKは自分の身体を、そして声を取り戻したのかもしれない。

認知症の患者S
その左下肢は歩くたびにくねくねと身体を支える役割を放棄し、身体は左へ傾いていた。
Sはその異常に気づかず、いつも「足はしっかりしてる」「身体はまっすぐ」としか答えない。
数週間、左下肢と体幹への質問をSに投げかけ続けた。時にはSに怒り口調で返答されもした。
でもSの身体について問い続けると「足がちょっとふらふらする」「身体が傾いてる」と・・・
ある日、Sの身体は傾くことなくまっすぐに力強く前を向いた。
まだ歩行に変化はない。ただ少し変化へのきっかけはつかめるかもしれない。

意識障害と診断された患者T
意識障害と診断された視床出血の患者T。紹介状には回復は困難と書かれてあった・・・
病室に行き、ひょっとしたら聞こえてないかもしれないと思いながら挨拶を済ませた。
とりあえず、その手をそっと握るとわずかに握り返してくれた。
手を触れているのがわかるのか問いかけると、またそっと手を握り返した。
可能性があるかもしれない。そう思った瞬間だった。
そこから数ヶ月、Tと今日まで一歩一歩ゆっくりと、しかし確実に歩んできた。
そして今日、Tは15分間一人で座り続けた。僕とTは思わずにやけてしまった。

全ての患者には可能性がある。
脳の可塑性の可能性。
その可能性に挑戦し続けるセラピストに私はなりたい。

2014年11月2日日曜日

判断力・直観力

佐藤 郁江(岡崎南病院)

判断力・直観力

ニュートン別冊シリーズ 記憶力、直観力、発想力、天才脳など 脳力のしくみ(2014)

この本にはいろいろと記憶力なども書かれているが、私は直観力が気になって手に取りました。脳の判断する時には「情報を分散して同時並行的に処理する。非常に複雑でとらえがたい処理方法なのである。また、私たちの意識にのぼる脳の活動は、全体の活動のほんの一握りだと考えられている、そして自覚できない脳の活動は、私たちが意識的に決めたと思っている行動や意志にも、影響をあたえているという」と書かれていました。当たり前のことなのかもしれませんが、本人にも行動のすべてを理解して行っているのではなく、なんとなく行っていることが多くあると思われます。ただ、これをすべて処理しようとしていくと、行動はできなくなってしまうと考えられます。しかし、何らかの処理が行われている時点でその人その人の行動の様子が変化することがあり、意識されていない部分が沢山あるということを知っておかなければならないと考えられます。私はこの意識されていない部分がなんなのかと考えていたときに、この直観のしくみの中に棋士の脳の直感が書かれ「楔前部」の大きな活動が大きく見られているとありました。「楔前部は視覚的、空間的に物をとらえたり、個人的な経験を思い出したりするときに活動する場所である」とありました。もちろん棋士にとっての直感を調べていることであり、視覚的、空間的の要素が大きくかかわってきているのかもしれません。しかし、個人的な経験を思い出したりするときに活動するということは過去の経験をもとに、直観を使っているという部分の証拠の一つになるのではないかと考えました。そして、この過去の経験はその人にとって意味のあるものでなければならないと感じています。

2014年10月18日土曜日

「環境との相互作用」について再度思う

尾﨑 正典(尾張温泉かにえ病院)

私事ではありますが、10月1日から新病院に移転し、病院機能のすべてを新病院に移行しました。何もかも新しく、何がどの位置にあるのかも、まだ把握しきっていない状態です。リハビリ治療に関しても、どこに自分の必要とする道具があるのかも、あまり把握できていません。しかし、人間は学習する動物であり、一度確認すれば記憶し再び必要となった道具の位置はだいたい記憶しています。まだ経験していない分からないことに関しては、スタッフに聞き、目的のものに到達する状況です。

階段一つとっても、前病院とは高さ、幅、素材、手すりの位置、明るさ、方向、何もかも違います。新病院という環境全体から得る情報は、膨大であり情報が脳を駆け巡っている状態です。現在、前病院との差異を感じ、常に環境と相互作用している自分を感じています。新病棟は4階にリハビリ室がありますが、一日に何度、いや何十回上がったり、下ったりしているのかは分かりませんが、階段の上がり下がりだけでも速度、幅など目的や内容により毎回違っていますし、身体が常に環境と相互作用していることを感じることができます。おそらくこの感じは、しばらくすると今ほど感じなくなってしまうとは思いますが。

「環境に慣れる」という言葉がありますが、「環境と相互作用する」ということを思い、常に感じている今だからこそ、感じるのですが、全く経験のない世界の中で、知覚・注意・記憶・判断・言語・運動イメージの認知プロセスをふむ経験をすることが、いかに大変であるかという事を自分自身で感じています。

認知プロセスの中でも現在、「記憶」という機能を意識の世界では前面に出ているように感じています。しかし、自分自身の無意識の世界では、他の機能が全面に働いているかもしれないとも思っています。

新しい環境の中で「環境との相互作用」「記憶」「過去の経験」など様々な経験をしばらくの間、しっかりと体験していきたいと思います。

2014年10月1日水曜日

生命の意味論

荻野 敏(国府病院)

多田富雄:生命の意味論(新潮社,1997)

休日に愛犬を連れて散歩に出かける。先日まで青々としていた木々が少し落ち着きを見せ初め、赤い衣をまとう準備をしているかのような森の様子を横目に見ながら愛犬と歩調を合わせる。ふと、気づくと甘い金木犀の香りが鼻腔をくすぐる。小学生のころ、当時流行っていた金木犀の香りのするガムを食べたくなり、校庭に生えている金木犀の花を取って口に入れようと本気で頭上の樹の花を見上げたことを思い出した。あれから何十年経ったんだろうか。しかし、相変わらず金木犀の香りは甘くて幸せな気分にしてくれる。来年も再来年も、この時期は金木犀の香りが嗅げるんだと思うと少しだけ楽しくなる。そのとき、娘はどの大学に行っているのだろうか、妻と一緒にどこに旅行に行っているんだろうか、自分は何に興味を持って働いているのだろうか、それは分からない。でもなぜかなんとなく幸せな気分になる。生きているんだと実感がわく。

多田富雄氏は1934年に茨城県で生まれた免疫学者である。数多くの免疫に関する研究をされ、多くの著作を残している。晩年は脳卒中右片麻痺となり、声を失うも執筆活動にいそしんでいた。保険点数改正によってリハビリ日数期限制度が導入された際に、「リハビリ患者を見捨てて寝たきりにする制度であり、平和な社会の否定である」と激しく批判し、反対運動を行ったことを知っている方も多いのではないだろうか。

先日、古本屋に足を運んだ際に、ふとこの本を見つけた。もちろん多田富雄氏の本は何冊か持っているが、この本は持っていない。ページをめくり、目次を見てみると刺激的な内容が並んでいる。その見出しは免疫学という枠を明らかに飛び出している。第1章から第10章までを列記してみると

第1章 あいまいな私の成り立ち
第2章 思想としてのDNA
第3章 伝染病という生態学
第4章 死の生物学
第5章 性とは何か
第6章 言語の遺伝子または遺伝子の言語
第7章 見られる自己と見る自己
第8章 老化-超システムの崩壊
第9章 あいまいさの原理
第10章 超システムとしての人間

こんな感じである。

免疫を知るためには「自己」を知ることを避けて通れない。一見、生理学的な反応と思えるこの免疫がなぜ「自己」と深く関係しているのか。多田氏は免疫系の発生の仕方を、動物の個体が「自己」と「非自己」を識別して「自己」の全一性を護る機構であると説明する。考えてみたら当たり前の話で、「自己」を「非自己」と認識して自分を攻撃してしまっては生存が危ういし、「非自己」を「自己」と認識してしまっても生きていくことはできない。前者が自己免疫疾患で後者が免疫不全疾患である。多田氏は、生命機械論的なメカニズムに支えられながらも、やがて機械を超えて生成してゆく高次のシステムとしての免疫系を、「自己」というものを自ら作り出してゆく「超(スーパー)システム」と見る立場を強調している。この「超(スーパー)システム」としての人間を理解するためには、目次の見出しのような幅広い見識が必要になるのは、当然であろう。

多くの内容が深く考えさせられる見解であった。それらをすべて列挙することはできない。でもひとつだけ、印象に残ったことを書き記してみよう。それは第4章の死の生物学に書かれていた内容である。まず、多田氏は冒頭に

驚くべきことに、生物学には「死」という概念がなかった。

と、書いている。高名な生物学者に死とは何かとたずねたら「生きていないこと」という答えが返ってきたそうだ。生命現象を研究する学問である生物学は生命現象のなくなる死は研究対象外らしい。確かに、医学において死は敗北を意味する。死なないように生かすのが医学だ。それは正しい(と思う)。しかし、我々人間の致死率は100%であることもまた事実だ。ある学者が「我々は死ぬために生きているんだ」というような言葉を述べたというのを読んだ記憶がある。死は恐怖であり忌み嫌うものであり、避けるべきものであるという認識は理解はできるが、死ぬときは死ぬ。そのためにどう生きるか、ということに最近ずっと思いを馳せていた。内容があまりにもタイムリーだったので、浸み込むように文章が入ってきた感じがした。

この本とは関係ないが、ファーブル昆虫記でおなじみのファーブル博士も、愛息子を若くして亡くしたのちに死について考えるようになったそうである。昔、蠍は火に囲まれると自分で毒を打って自死すると言われていたそうだ。ファーブル博士は実際に蠍を火で囲んで確認したそうである。一見すると自らに毒針を打ち込んで息絶えたかのように見えるが、実は単に動かなくなっていただけで、火が治まればまた動き出すそうである。自死する生物は人間だけだそうだ。もちろん、細胞単位ではアポトーシスする。しかしそれは「超(スーパー)システム」としての人間を維持するための戦略であり、個体としての崩壊、つまり死を自ら選ぶことをするのは人間だけなのだ。だから、人間は死の意味をもっと深く考えなければいけない。

家族と笑いあい、美味しいものを食べ、愛犬と散歩し、自然の移り変わりを全身で感じ、金木犀の甘い芳香を楽しみ、過去を想起して、未来を想う。

今、私は生きている。

2014年9月20日土曜日

怪談と擬音から

岡崎共立病院 井内勲

先日の愛知ベーシックコース、二日目の朝、出かける準備を進める際に何気なくつけていたTVからの『語り手と聞き手の「イメージの共有」』というフレーズに注意が向き、思わず手を止めて見入ってしまった。

その番組は、ご存知の方も多い日テレ系、日曜日、朝7時からの『所さんの目がテン!』という長寿番組において『怪談の科学』とういうテーマ(関東地方では8月17日放送分)であった。大まかな内容の紹介としては、怪談は話を聞くだけの聴覚情報がメインにも拘らず、かなりの恐怖を感じる。それはなぜなのか?その恐怖を演出する様々なテクニックと、怪談に隠された魅力とナゾを解明する。ということで、まず3つ問題提起をし、それを実験、検証しながら結論づけをしている。

詳細は当番組のホームページから参照できるのでそこにお願いするとし、結論的に怪談に隠された3つのテクニックとは、

①擬音を多用し、話をより「リアル」に想像させ、まるで"怪談の世界の当事者"になったような錯覚をおこさせる。
②早口で語ることで、語り手の「緊迫感」が聞き手に伝わりやすくなり、結果、"恐怖を感じやすい状態"をおこさせる。
③1対1に語るのではなく、大勢の中で聴かせることで「怖がっている人が周りにいる」という状態が、ひとりで聞く時より興奮度が増し、より恐怖を感じやすくなる。

という事であった。

今回、自分が興味をひかれたのは先にも述べたが、擬音語にて『イメージの共有』をはかるという部分である。

それは①の内容の中で、「一番大事なのは、イメージが湧かないと困るから私頭の中でいつも画を描いてる」とお馴染み、稲川淳二氏の怪談の恐怖を感じさせるテクニックについてのコメントがあった。さらに、怪談において重要なのは、語り手と聞き手の『イメージの共有』であり、そこで使われるテクニックとして擬音で、感性を刺激する。と彼はインタビューに応じていた。更に番組の中において擬音が持つ聞き手にイメージを共有させる効果について「擬音は言葉で理解するのではなく、感覚的に受け入れることになるのでとてもリアルに感じるようになります。擬音を多用されることによってとても具体的にイメージが出来上がることになります」と心理学者はコメントしていた。

言うまでもなくイメージを治療ポイント、toolとして臨む我々は、擬態語も含め、オノマトペを使用し、また患者にも言語記述してもらう。自分としてここであらためて、時には「聞き手」でもあり「話し手」でもある患者や我々、治療者は、この擬音の持つ『イメージの共有』という効果を視野に入れ、どんなオノマトペをどのように活かして使用していくのか。どのようにそれらを理解していくのかを再考する必要があると、朝の慌しい準備の中、気づかされた。

そしてきっとこの話題への選択的注意も、特にベーシックコース途中であった事も大いに影響しているであろうことに、感謝したい。

2014年9月2日火曜日

重度認知症患者の中枢性の痛みの評価と治療

若月 勇輝(西尾病院)

重度認知症患者の中枢性の痛みの評価と治療
( Assessment and Management of Pain, with Particular Emphasis on Centeral Neuropathic Pain, in Moderate to Severe Dementia )
Erik J.A.Scherder 著
Drugs Aging 29号 ( 2012年7月 )

臨床の中では、認知症を合併した骨折患者が多くいます。その患者が痛みを訴えますが、本当に痛いのかどうか、どのくらい痛いのか、そもそも認知症の痛みの特徴は何なのかを調べていました。最新の知見を得るために、新しいレビュー論文を探していました。

今回私が読んだ論文は、私が持っている論文の中では、最も新しい認知症の痛みについてのレビュー論文です。著者であるErik J.A.Scherderは、オランダのアムステルダム自由大学(Vrije Universiteit Amsterdam)の教育学部と心理学部の教授であり、認知症についての研究論文を多く執筆している研究者です。

中枢性の痛みは、これまで脳卒中患者を中心に語られており、認知症患者の痛みは中枢性のものということはあまり多く言われていないそうです。白質病変を生じる認知症も中枢性の痛みを生じる可能性があり、認知症患者の痛みは中枢性が最も多いのではないかと主張していました。また、認知症患者の痛みは原因が分からず、治療されないままになっていることがあり、その治療の重要性について記述していました。

認知症患者の中枢性の痛みの評価方法は、一般的な自己報告の痛みに加え、痛み行動評価を併用することが妥当だろうと述べていました。また、その他の評価には、感覚検査や脈や血圧などの自律神経系の検査、不安などの情動の評価、腱反射やバビンスキー反射などの病的反射の検査が紹介されていました。治療は投薬や電気刺激について記載されており、リハビリテーションに関しては記載されていませんでした。

中枢性の痛みは、認知神経リハビリテーションにおいても介入できる可能性があります。認知症患者に対しても、諦めずに介入していきたいと感じた論文でした。

2014年8月15日金曜日

スーパープレゼンテーション

進藤 隆治(岡崎共立病院)

スーパープレゼンテーション(NHK Eテレ 毎週水曜日22:00~22:25)

スーパープレゼンテーションは、NHKで放送されているプレゼンテーションを題材とした語学教養番組である。この番組は、アメリカで開催されている大規模カンファレンス「TED Conference」の講義を日訳字幕付きで放送している。一度見て面白いと思い、皆に遅れながら、毎週水曜22時に録画予約して観ている。

ここでの発表者は、あらゆる分野の最先端をいっている方々で、話し・表現・スライドを駆使したプレゼンで視聴者を魅了する。自分の場合は、テーマというより発表者がどのように視聴者に伝えるのかといった発表の仕方に興味があり、この番組を観るようになった。

自分と他者の交流は、自分の主張と他者の主張から共有できる部分を確認し、また違う部分を明らかにする事で、確認や新たな認識となると考える。

自分の主張を整理し、他者にわかりやすく伝えることが必要であり、また、他者の主張を聴き、理解することできるだけ余力(余裕)が必要である。これは普段の患者とその家族、同僚、専門仲間など、自分に関わる全ての人とのやりとりの中で重要だといえる。

この番組は、自分がどのようにプレゼンできるかといった引き出しを増やしてくれる。理想のプレゼンをできるように今後も観ていきたい番組である。

2014年8月1日金曜日

たまにはぼんやりと

首藤 康聡(岡崎南病院)

先日、夏休みを利用して九州の実家に帰ってきましたが、やはり地元は良いものですね。僕の地元は海のそばで子どもの頃から海辺で良く遊んでいました。さてその海を妻と子どもが浜辺で遊んでいたわずかな時間ぼんやりと眺めていたのですが、なんだかすっきりとした感じがしました。

さて、このぼんやりとする時間。実は非常に大切な時間なんです。このぼんやりとしている間にも脳は活動し、最近の研究では自己認識や記憶の想起、他者の心の推定などに関与するのではないかといわれています。実はこのようにぼんやりとしていても脳が勝手に仕事をしてくれているんですが、この様な活動はデフォルトモードネットワーク(Default Mode Network:DMN)と呼ばれています。

DMNはワシントン大学医学部のM・E・レイクル教授が2001年に発見した脳活動なんですが、これは複数の脳領域で構成されるネットワークで、脳内の様々な神経活動を同調させる働きがあると言われています。また実験では後部帯状回と前頭葉内側が活動したそうです。また最近の研究ではDMNの機能障害は認知症や鬱病、自閉症や統合失調症などの疾患に関与するのではないかと言われています。

認知神経リハビリテーションを学んでいくとどうしても脳を活性化させ、組織化する必要があると考えてしまいがちです。それは決して間違いではないと思います。しかし、DMNを考えると時にはぼんやりする時間がより脳の組織化を促すような気がしてなりません。

認知神経リハビリテーションは今、行為間比較という新たな課題に向かっていこうとしています。しかし、まだまだ考えなければ成らない基礎がある事を忘れてはいけないと思いますし、その基礎を整理して臨床応用していくためにはぼんやりする時間も必要ではないでしょうか。きっとこの時期は夏休みをとる方もいらっしゃると思います。いかがですか。今年の夏休みはちょっとぼんやりしてみませんか。

2014年7月15日火曜日

身体知獲得のツールとしてのメタ認知的言語化

佐藤 郁江(岡崎南病院)

身体知獲得のツールとしてのメタ認知的言語化
諏訪 正樹著
人工知能学会誌20巻5号(2005年9月)

身体知(身体が覚え込んだ技やコツ)につての仮説が書かれている論文である。言語的意識がなくなり身体が技を覚え込んで無意識にこなすようになった時、身体知を獲得したと考えるとある。この裏づけとして、ゴルフにおける素人とエキスパートの言語的意識の違いを指摘していた。その中に奇形のパターの使用時はエキスパートでさえも熟達状態ではないため言語化か行えるとあった。そしてこの論文の中の実験で歌うことの中で言語量とパフォーマンスに相関がみられたとある。言語化とパフォーマンスの直接的な研究があり興味深かった。もちろん健常者で行われているものであり、言語化の内容もあると考えられる。言語化されにくい身体知につても言語化することの意味をもう一度考えることができた。

2014年7月1日火曜日

子どもが自ら考えて行動する力を引き出す

尾﨑 正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)

子どもが自ら考えて行動する力を引き出す 魔法のサッカーコーチング
畑 喜美夫 著 安芸南高校サッカー部監督  株式会社カンゼン

FIFA サッカーワールドカップ2014が開催されている。サッカーファンはもちろんのこと日本国民がJAPAN を応援していたことでしょう。

最近読んだ本に、私の故郷である広島の高校サッカーチーム監督の書かれた本を読みました。筆者は選手として全日本ユース代表、大学では総理大臣杯、全日本インカレ、関東選手権の3冠をとり卒業後、高校教師として故郷に帰り、監督としては全国高校総体優勝という経歴を持っています。筆者の指導の特徴は「教えない」指導法であり「自主自立の人間育成」つまり、「自分で考えて、自分で判断し行動できる」選手育成の指導である。トップダウンの指導が常であるスポーツ界においてボトムアップ理論で行う指導には賛否両論あるようですが、結果を出さなければならないスポーツにおいて全国優勝という実績を出しているということは、この指導方法は何かリハビリ治療の中で参考になることがあるのではないかと読んでみました。

認知神経リハビリテーションのセラピストと患者の関係は教師と学生の関係であり、どのようにして患者を学習させていくのか、教師であるセラピストは常に考えなければなりません。いくつか読んでいく中で私が気になった文章を挙げてみたいと思います。

・コーチが子供たちに教えすぎず、考えさせたり、創造させたりする時間を与えてほしい。
・コーチは自分の意見や主張をするのではなく、子供たちの思いや意見を聞き出し、取りまとめて組織の方向性を導く。
・すぐに「ダメだ」というのではなく、子供たち自身でどうしてできなかったのかを考えさせて、自らの打開策を導いていくのです。成功体験をもうワンステップ伸ばす問いかけをします。
・子供たちが、うまくいかなくなって苦しんでいるときに、すぐ手を差し伸べずに、子供たちが考えて解決する瞬間を見守っておいて下さい。そうしたときは、すこし距離をおいて様子を見ながら、自分で考えて解決しようとしているか、見てあげて下さい。

読んでいると伝統的なリハビリテーションがトップダウン式の指導法で、ボトムアップ理論の「考えさせる指導法」が認知神経リハビリテーションの治療に感じます。

患者自身が自分自身の身体を感じ、考え、気づく。そして、セラピストは患者の感じたこと、考えたこと聞き出し、方向性を導く。

筆者の言う「自分自身で考えて、自分で判断し行動できる」選手育成。これは認知神経リハの治療の「どんな環境にも対応できる身体の創造」と同じではないだろうか。

2014年6月15日日曜日

ミラクルボディー

荻野 敏(国府病院)

ミラクルボディー(NHKスペシャル)
http://www.nhk.or.jp/special/miraclebody/004/

いよいよFIFAサッカーワールドカップ2014が開幕しましたね。このヒントを書いている時点で日本は・・・・・、という感じですが前向きにがんばって欲しいです。そんなワールドカップ開幕直前に2週にわたってNHKスペシャルでミラクルボディーの第4弾が放送されました。第1週目はブラジルの至宝ネイマール! 第2週目はスペイン代表です。

ネイマールの身体、そしてスペイン代表シャビとイニエスタの脳!

シャビとイニエスタは身長が低くフィジカルが弱いと言われ続けていました。しかし身体サイズを補って余りある創造性と空間把握能力!しかもそれを二人は相互に補完し合っているんです。

こんなの見せられたら、今回のワールドカップはまたスペインの優勝かなあって思っちゃいました。しかしグループリーグの蓋を開けてみると・・・・・・・・・。

ワールドカップは何が起こるかわからない!

世界中の予選から勝ち抜いてきた国の代表が、一堂に会して競い合う。そこは世界最高レベルの身体能力と脳機能の集約地。熱戦がこの地球の裏側で行われているって考えると、もうドキドキしちゃいます(笑)

見逃しちゃった方は再放送の機会は見逃さないようにしてください。そして、感覚のすごさ、脳のすごさを感じてみてください。

2014年6月2日月曜日

知覚は幻 ラマチャンドランが語る錯覚の脳科学

井内 勲(岡崎共立病院)

知覚は幻 ラマチャンドランが語る錯覚の脳科学
別冊日経サイエンス174  2010 V.S.ラマチャンドラン/D.ロジャース=ラマチャンドラン著 北岡 明佳 監修 

少し前の話だが今年のゴールデンウィークに、近隣の百貨店催事場にて「世にも不思議な科学館&錯覚美術館」というなんだかワクワクするような催しがあったので見に行た。内容は、色々な錯視の紹介や、簡単な説明、アハ体験や、色彩や陰影を使った物体の立体視の奥行の錯覚、図や斜線を使っての視覚の補完など大人から子供まで楽しめるもので、まさにゴールデンウィークは「安近短」と図っていた我が家としては充実であった。

しかしながら、個人としては若干の物足りなさもあり、もう少し科学的・心理学的な説明を・・・と、確か数年前に買った表題の雑誌を思い出し、久しぶりに開いてみた。

この雑誌においては一般書(Scientific Americanの日本版)という点で、先ずは読みやすく、挿絵や図表も分かりやすく、見やすい。そのため導入しやすい。それでいて本号の監修者である北岡氏も、「はじめに」で 『1話ごとに完結した内容だが、全体を通読すると認知科学の最前線を理解できる。・・・一般人はもとより、心理学や認知科学、神経科学を学ぶ学生向け入門書としても好適だ。』と述べられているよう に、少し専門的な部分や1話ごとに更に内容を深める為の参考文献が、「もっと知るには…」として紹介されている事に更に有難さを感じる。(当然、ほとんど英文だが・・・)

本号の目次(全30話)の一部を紹介すると、第1話:幻影が生む幻 第4話:ゴリラ効果 脳が生み出す見落とし 第8話:幻に触れる 第10話:気まぐれな恒常性 第17話:曖昧さと知覚 第22話:視覚失認 見ているのに、わからない 第28話:体外離脱 肉体から分離した自己 第29話:誇張を好む知覚 第30話:行間を読む モーダル補完とアモーダル補完 などなど

おそらくは、これらの題名から内容を推測される方も多いかと思われる。今回、自分がヒントとして感じたのは、このような知覚の曖昧さ、幻、脳の情報処理なども当然ではあるのだが、第11話:美意識の神経科学 において述べられていた箇所が気になった。

『…小さなアハ体験をもたらして、視覚処理の初期段階に注意のメッセージを送る。このメッセージがさらなる探索を促し、小さなアハ体験が繰り返されて、ついには対象が何であるかを認識して最終的な「ああ、なるほど」に至る。』『最終的なアハ体験だけでなく隠れた物体を探し出す行為そのものが快い』と言う箇所である。

なんだか、我々が患者の回復へと、学習へと促す為の「繰り返し」に似てはいないか?

その「繰り返し」には、小さなアハ体験を要し、注意のメッセージを持っているのか?

そして、患者自身は隠れた身体を探し出す為の知覚探索は快いと感じとれているのか?

今一度、考えてみた。

2014年5月15日木曜日

ツカむ!話術

進藤 隆治(岡崎共立病院)

ツカむ!話術
パトリック・ハーラン著(角川oneテーマ21)

パトリック・ハーランはアメリカ・コロラド州出身。ハーバード大学比較宗教学部卒業。2012年10月より東京工業大学非常勤講師として「コミュニケーションと国際関係」を担当している。

上記の経歴を読んで、皆さんどんなすごい方なのかと興味が湧きませんでしたか?

実はこの方はお笑いコンビ「パックンマックン」のパックンなんです。自分は話術でファンを笑わせている芸人が語る話術とはどのようなものなのか興味があってこの本を手にとってみました。

この本では説得力を上げる3つの要素として「エトス」「パトス」「ロゴス」という言葉を紹介しています。

エトス:人格的なものに働きかける説得要素
パトス:感情に働きかける説得要素
ロゴス:頭脳に働きかける説得要素(言葉の力による説得要素)

これらは相手に説明をする際により信頼を得られやすくするとありました。

私たちは患者にリハ介入していく際に、説明して同意を得て行っていくいわゆるインフォームド・コンセントの過程があります。しかしながら、リハビリの内容に必ずしも同意を得られるというわけでないことを経験します。リハビリを行っていく上で、何に問題があって、どのような解決策を見出し、どのような状態になると予測するか、患者に説明して納得してもらう必要があります。

また、患者だけでなく、病院スタッフとの話し合いの中でも自分の考えを伝えなければいけない場面に遭遇します。

20代を勉強して知識を深めていかなければと思っていましたが、自分が30代になると知識・技術の向上と同じように、それに伴い人にどのように伝えるのかも重要だと考えるようになりました。

伝える技術おいては自分自身まだまだ未熟ですが、患者や職場の同僚、一緒に勉強している仲間との関わりの中で磨いていきたいと思います。

伝える技術は患者に言語教示していく際の強力なツールになるのではないでしょうか!?

2014年5月3日土曜日

臨床のヒントを探そう

首藤 康聡(岡崎南病院)

さて我々愛知県認知神経リハビリテーションの運営委員は持ち回りで日々の臨床のヒントになればと思って書いているのが、この「
臨床のヒント」です。その内容は普段読んでいる書籍や、日常の生活の中で感じた事などその内容は多岐に渡ります。

さてこのようなヒントは探そうとしてもなかなか見つかりません。普段の生活の中でふとしたときに見つかったりします。それは散歩中であったり、お風呂の中であったりします。

そう臨床のヒントは臨床以外の時間に見つかります。今日から4連休の方もいると思います。普段とは違う日常の中でひょっとしたら多くのヒントを見つけることができるかもしれません。もしこの連休中、臨床のヒントを発見された方はぜひご一報ください。

それでは皆さん。楽しい連休をお過ごしください。

2014年4月17日木曜日

「分かりやすい教え方」の技術

佐藤 郁江(岡崎南病院)

「分かりやすい教え方」の技術
藤沢 晃治著 講談社

私たちセラピストは患者さんに動作を行ってもらうために教えるという作業を行っていることがあると思います。この「分かりやすい教え方」の技術の中に「教える」のポイントとして5つ挙げられております。
「教える」とはサービスすること。
「教える」とは説明すること。
「教える」とは観察すること。
「教える」とは分解すること。
「教える」とは誘導すること。

ここでいう「観察」とはよりよく教えるための情報を収集することです。と書かれております。患者においても当たり前に行っていることだと思われます。その人に問題点が生じているから教える必要があるわけで何を教えていったらよいのか、またどんなところでわからなくなっているのかで教え方を変化させることが必要になってきます。

そして分解するとは一つの大会ハードルを複数の低いハードルにしてあげるという考えです。だから患者さんにも何を教えるべきなのかを考えたかとにその人に必要なことを分けて教えることも必要になってきます。

また、ここでいう誘導は希望する地点まで送り届けてあげる行為です。と書かれております。これはガイド役となるため導くと考える方が患者さんにとっても必要なことだと思われます。

教えることはサービスであるとあります。ガイド役という意味でもだと思われますが、目標に向かっていくということは、この目標は患者さん自身がやりたいことであることを考えれば当たり前のことに思われます。自分が知ってもらいたいことの押し付けではなく患者さん自身が分かり身に着けることを考えるとサービスというお客様といった考え方も必要になってくると思いました。もう一度私の中で忘れてはいけない原点の一つだと思いました。

2014年4月3日木曜日

LEADERS

尾﨑 正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)

先日、トヨタ自動車創業者 豊田喜一郎氏をモデルとした「LEADERS」というドラマを見ました。佐藤浩市が演ずる社長である佐一郎(喜一郎)が労働争議の中で、社員に会社存続のため、また日本国の将来のために1600人の希望退職者を募るという話をする場面がありました。佐一郎は「私は断腸の思いで本社従業員1600名の希望退職者を募ることにした。私は常々社員は家族だと言ってきました。その家族に出て行ってくれと言うことは会社を潰すことよりも辛い。たった一つの部品が欠けるだけで、自動車が完成しないのと同じように、たった一人の社員が欠けてしまえば、それはもう、私の会社ではない。」という発言がありました。社長という一人の人間に共感し、従業員(家族)が「社長と共に働きたい」「ついていきたい」という気持ちのなかで仕事を行っていることに感銘を受けると同時にリーダーシップのあり方を学びました。また、この発言を聞いている中で「創発特性」のことがふと思い浮かんできました。あらゆる一つ一つの部品が関係を持つことで自動車を動かすことができる。一つの部品が欠けるだけで自動車は動くことができない、完成しないという事実。そして、人間も骨、筋、腱、皮膚などの個々の関係性が行為を創発する。「創発特性」は認知神経リハビリテーションを学んでいくなかで必ず学習していきます。

「創発特性」とは、システムを形成している個々の要素のレベルでは持っていない性質がシステム全体として振る舞う際に発現されることです。よく例として「時計」があげられますが、時計は一個一個の部品が関係性を作り、全く異なっている「時」というものを生み出します。人間を治療するリハビリテーションという場面だけではなく、業務運営上でもシステム、組織運営を考える上で「創発」「創発特性」の重要性を改めて考えさせられたテレビドラマでありました。

Perfetti教授の教えである「何からでも学び治療に結び付けていく」ということをさらに理解することが出来ました。

2014年3月16日日曜日

ソモサン⇔セッパ

荻野 敏(国府病院)

ソモサン⇔セッパ(フジテレビ系バラエティ番組、毎週金曜日23時放送)
http://www.fujitv.co.jp/somosan-seppa/index.html

「そもさん!」
「せっぱ!」

子供の頃、テレビアニメの「一休さん」を見ていた世代には懐かしいこの響き。そもそもどういう意味かと言うと「そもさん」とは“什麼生”と書き、宋代の俗語で「さあどうだ」「いかに」)」と問うことです。回答者は「せっぱ(説破)」と返します(Wikipediaより)。

フジテレビ系の深夜番組であるこの「ソモサン⇔セッパ」は知的創造力があふれた面白い番組です。その番組のホームページにはこう書かれています。

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クイズ・ソモサン⇔セッパとは、論理的思考力や創造性が問われる「クリエイティブ・クエスチョン」を出題し、回答者の潜在知力を格付けする、新しい「知の格闘技」です。さあ、アナタの潜在知力は何%?
////////////////

こういった番組はたくさんありますね。僕はこういう頭を使うクイズとかは大好きです。もちろんいつも分からなくて「あああ、そういうことかぁ」って悔しがってばかりですけど。大人になるとどうしても思考が堅くなってしまっていけないなあって思います。常に柔軟な論理的思考力や創造性を持ち続けていないと。この番組はCMやキャッチコピーの秀逸な作品とかをクイズ形式で紹介してくれたりして、いつも「なるほどぉ」って感心させてくれます。例えば・・・・・

『バレンタインデーのお返しではホワイトデーにホワイトチョコやマシュマロやクッキーなどを贈るのが一般的ですが、最近ではアップルパイやチョコパイなどのパイを送ることが多くなってきているそうです。それはなぜ?』

と言った問題が出題されます。もちろんその出題の直前に合言葉の「ソモサン!」「セッパ!」と掛け合いますけど。さて、この上記問題のなるほど!って唸るような説破は出てきましたか?分からない人はホワイトデーがいつなのかを考えてみてください。そしてその日を表現する言い方はどういう言い方があるのか。その言い方とパイを意味するものが合致したときに「おおおおおお!」っとえもいわれぬ快感が脳内をめぐります!ほら、分かったでしょ?

ヾ(=^▽^=)ノ

論理的思考や創造力って僕らリハビリテーション専門家にとても大事な能力じゃないでしょうか?ちょっとした出来事を違った視点で見る、ちょっと考え方を変えてみる。そうすることで生まれることも一杯ありますよね。もっともっと頭を柔らかく、そしてもっともっと頭で考えて・・・・・。訓練を構築しないと!

2014年3月2日日曜日

知性・感性そして優れた技術-野依良治教授から学ぶ-

井内 勲(岡崎共立病院)

知性・感性そして優れた技術-野依良治教授から学ぶ-

2014年ももう3月となり、今年度も残すところ後一か月ほどとなった。

この時期は年度を振り返った業務の見直し、診療報酬を見据えながらの次年度の準備、退職者、新入職員への対応など業務の締めくくりや、反省から次年度への目標を明確にしていく時期である。

当然ながら、自分自身の臨床業務や、そのベースである学習面においての振り返りも同様である。今年度はどんな年で、どんな事を目標とし、結果はいか程であったか、またどれだけのチャレンジができたのであろうか?

今年の元旦に実家、兵庫に帰省し、その朝の朝日新聞の記事にノーベル賞受賞者の科学者、野依良治氏の談話があった。大まかなテーマとしては「オンリーワンの仕事を成し遂げた先輩は、どんな子供だったのだろう。…学校で学んだこと、学校では教わらないが大切なことは何か。」ということであった。

恥ずかしながら自分は野依教授について、名古屋大学の教授で科学者ということ以上はよく知らなかった。実はこの記事で生誕から高校までを兵庫にて過ごされていた事を知り、同郷の出身であった事に個人な親しみがわいたのだが、教授の実際の業績については難しくなかなか苦手分野であり関心が向きにくいのが正直なところであった。

しかし、偉人の幼少期やその学を修める時期の環境や出来事、またご自身がそれを振り返られてそこから内省されている内容などは大変に興味深くまた参考となった。
教授は幼少期の自然とまっすぐに向き合う姿勢から好奇心を培うようになり、その経験に基づいて「これは面白い、面白くないと感じるセンス・オブ・ワンダー、不思議だなと思う気持ち」を育むことこそが科学者としての知性・感性である、されている。

「センス・オブ・ワンダー、不思議だと思う好奇心」

これらは我々、治療者として症例の難解な現象に対して「なぜだろう」というと考える点と似ているのではないかと感じた。またそれは適切なタイミングで疑問として抱き、分からないことへ評価、調査、追求していく探求心などは類似しているように思われ、そしてこれにもまさに知性と感性が必要ではないかと考える。

それは野依教授のような科学者と同じ自然から育まれるものなのかどうかはわからないが、次に教授はもう一つ大事な事とに、「優れた技術」を挙げられ、それは「暗黙知」のような知識の集積である、と述べられていた。

「何もないところでは、生きていくために身辺にあるものを使って、自分で技術をもって何かを作り出さなきゃいけない。(ここでは例として、幼少期に弟と手分けして家事を手伝い野菜を作ったり、料理をしたり、のこぎりや金づちを使って勉強机や、イスを作成することを挙げている。またそこで求められた力学、幾何学の生きた知識、自分で工夫しながら学ぶこれを教授は「暗黙知」としている。)それが科学であり、技術である。」と述べさらに、
「いつの時代もそれぞれに困難があり、人間はそれに対峙し、順応しながら生きていく。だからもっと高いレベルのチャレンジをしなきゃいけない。好奇心は経験に基づいた価値観から生まれる。個人の知恵も何かに触発されて出てくる。だから科学者も科学以外の素養を培っておかなきゃいけない。自分一人で勉強できることは限られているので、人と交じわって自分を高めていく。そして社会のために何をしなければいけないか、若い人には考えてほしいね。」
と教授は我々に訴えた。

最後の呼びかけから色々と感じ、考えさせられた。自分の知性・感性はどのように育んできたのか、また今後はどうなのか、また優れた技術は…。幼少期はかなり過ぎてしまっているが、これをもとに今年度の反省と次年度への刺激としたい。

今月15日は今年度、最後の愛知県認知神経リハビリテーション研究会の勉強会が開催される。もっと高いレベルへのチャレンジと、自分一人でなく、多くの人と交わって個人を高めあえる場になることを期待したい。

2014年2月15日土曜日

転倒

首藤 康聡(岡崎南病院)

さて2月6日よりソチオリンピックが開催され,この文章を書いている今日で6日目.現時点での日本のメダル獲得数は男子スノーボードハーフパイプの平野選手の銀メダルと平岡選手の銅メダル,男子複合ノーマルヒルの渡部選手の銀メダルの3つです.この記事がアップされる頃にはきっとメダルの数が増えていることだと思います.

さて,平野選手らが出場したハーフパイプの決勝ではコースのコンディションが悪く転倒する選手が多かったように思います.このような競技に転倒はつきものですが,転倒する際にはどの選手も反射的に手を伸ばしていました.これは言うまでもなく「保護伸展反応」です.この反応は転倒による怪我を防ぐための防御反応の1つで,この反応のおかけで我々は自分の身体を守ることができます.身体を守るこの能力は我々には必要不可欠であり,無くてはならない能力です.

しかし,この能力をあえて封印する職業の方々がいます.それは「お笑い芸人」です.皆さんもテレビで芸人の方々が白い粉や墨の池に飛び込むシーンを見たことがあると思います.この時,必ずと言って良い程,芸人の方々は自分の顔を汚します.そうした方が笑いを取れるからです.ではどうやって顔を汚すのでしょうか?中には飛び込んだ際に顔に塗りつける芸人もいます.しかし,中には飛び込んだ際に手を伸ばさず顔から飛び込む方もいらっしゃいます.つまり笑いを取るために意識的に保護伸展反応を抑制しているのです.

この意識的に反応を抑制する機能は特異的病理を抑制する事と似ています.ではなぜこの2つは似ているのでしょうか?それは2つの出来事が人間の基礎科学の上に成り立っているからです.反射が皮質の影響を受ける事は数年前の学会で当学会の会長である宮本先生が説明されていました.それは腱反射の増強法で有名なジェンドレンシック法でも説明ができるというものでした.この方法は反射が出現しにくい対象者の意識をそらす事で反射を出現しやすくする方法であり,これは裏を返せば反射は皮質の影響を受けているとおっしゃっていました.これは一つの基礎科学でこの基礎科学を応用したのがお笑い芸人の方々でもあり,我々臨床家でもあるのです.

リハビリテーションは応用科学であり,当然ながら認知神経リハビリテーションも応用科学です.そしてお笑い芸人の行動も同じ応用科学なのです.おそらく保護伸展反応を抑制する自分たちの行為が応用科学であると考える芸人さんはいないと思います.しかし,もとをたどれば共通する部分は同じなのです.基礎科学を理解する事で臨床以外の意外な部分も見えてきます.ひょっとしたらそれが次の臨床のヒントになるかもしれませんね.

2014年2月1日土曜日

失行症―「みること」「さわること」とのかかわりへ

佐藤 郁江(岡崎南病院)

失行症―「みること」「さわること」とのかかわりへ
中川 賀嗣著 高次脳機能研究 第29巻第2号 2006年

副題の「みること」「さわること」がきっかけで読んでみようと思った文献です。

この中で行為・動作を3つの側面に分けています。
①何を行うかの側面(動作の内容の選択)
②どのように行うかの側面(動作の駆動・抑制と身体間の調和)
③動作の正確さの側面(補正)

動作・行為をこの独立した3つの側面に区分し観察できると述べています。失行症という部分だけでなく、動作を観察するにあたってこれはとても大切なことに思われます。実際この3つに分けた中で③の部分においては非失行性障害として、体性感覚の入力系の障害、空間操作能力障害、出力系の障害と考えています。この文献自体が失行を、パントマイムの障害と道具使用の障害とで考えて理解しているのであって言語理解ができているかどうかといった分ける作業を行っているものであると感じました。この分ける作業は私たちが治療していく中で原因を突き止める作業と似ているところがあると考えられ、もう一度見直してみることでできている、できていないに対して観察を進めていくことができる手掛かりになると感じました。

2014年1月16日木曜日

様々な発見

尾﨑 正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)

娘たちが剣道を始めたのと同時に、私も健康維持も兼ねて20年ぶりに再開しました。20年ぶりの稽古をしていくなかで、まず感じたことは自分が思っているとおりに身体が動かないという現実でした。過去に自分が動いていた感覚と身体動作が、かなりずれていることにびっくりしました。当然20年前の体力とは違うことは十分理解していますが、あまりに感覚がずれていることに愕然とし、まずはこのずれの修正に取り込むことが重要であると感じました。身体に注意を向け、何がいけないのか、どこにずれが生じているのか、肘、手、肩の動かし方、足の運び方など様々な動きに注意を向けて、身体の動きをしっかり感じながら稽古を行っている以前とは違う視点で稽古をしている自分がいました。自分の運動指令と動作がずれている感覚、このようなことは患者さんの中には当然のように存在しており治療においても、このずれの修正は重要な要素であると感じました。患者さんの発言に「以前とは違い、思ったように体が動かない」と言われる方が発症からの期間が短い方ほど多いと思います。私の感じた、身体動作とイメージのずれが生じる経験を剣道を通じて感じることができました。

話は変わりますが、武道のなかでは「見取り稽古」というものがあります。先生や先輩、強い選手の稽古や試合を見る稽古であり脳科学でいう、ミラーニューロンを使うことです。昔の日本人はミラーニューロンの知識はありませんが、上達の方法の一つとして稽古や試合をしっかり見取ることで可能になることを知っていたのだと理解できました。

現在私は、自分のイメージどおりの身体の動きができるように身体のずれの修正に四苦八苦しています。

再度、話は変わりますが、一緒に稽古している少年少女達にアドバイスする中で「たとえ」を利用するとわかりやすいと思い、自分が少年時代に指導して頂いたように竹刀を操作する場合、「釣り竿を投げる時を思い出して、竿の先が、飛んでいくときにどうなっているかな?竿の先が曲がってえさの付いた針が飛んでいくよね・・・」といった説明をしましたが、どうも分かっていない様子であったので、そもそも釣りをやったことがあるのかどうかを聞いてみました。ある少年が「はいあります、ゲームで・・・」という返答が帰ってきました。「ゲームで・・・・?」少年は釣りをした経験がないことが分かりましたが、釣りをした経験がない子供たちが多いことにびっくりしました。私が子供の頃、普通にやっていた遊びが現在は通じない。私の方も釣りのゲームをやったことがないのでお互いに共通性がないなか、どう対応していいのか迷ってしまいました。このような現実は、臨床場面でもあるような気がします。私たちの経験と患者さんの経験の違い、その時代の文化、言語など様々なことに共通性がないところがあるのではないかと改めて感じ、話をきちんと聞き対応していかなければならないと思いました。

認知神経リハビリテーションを学習することで得た知識が、20年ぶりに再開した剣道にかなり生かされています。内部観察、運動イメージ、ミラーニューロン、最近接領域、身体感覚、など。子供たちに指導するうえでも、以前とは違う方法で指導をすることができるように感じています。

あらゆることから学び、それを臨床に生かしていくスタンスである認知神経リハビリテーションから私の場合、剣道という武道に現在生かされています。