2012年10月17日水曜日

パスカル パンセ

荻野 敏(国府病院)

NHKテレビテキスト 100分de名著
パスカル パンセ 著:鹿島茂

パスカルって知ってますか?

知らないと言う人でも、“ヘクトパスカル”と聞くと「あああ!」と気づくかもしれませんね。じゃあ「人間は考える葦である」って言葉は聞いたことありませんか?「クレオパトラの鼻」の話は聞いたことありませんか?

実はパスカルという哲学者が書いたパンセという本に書かれているんですよ、葦もクレオパトラも。パスカルは1623年に生まれたフランスの数学者・物理学者・文学者・哲学者です。日本ではまだ江戸時代が始まったばかりの頃に生まれているんですね。このパンセは「死後、書類の中から発見された、宗教およびその他の若干の主題に関するパスカル氏のパンセ(思索)」と言うのが正式な名称だそうで、これからもわかるとおり、パスカルが生前に書き巡らせた草稿を遺族や編者が編纂した随筆集です。なんども改訂を繰り返して現在の形になったそうですが、後半はキリスト教護教論の色彩が強く、日本人にはなじみが薄く、かつ理解が難しいのだそうです。もちろん僕もパンセを読んでいません。

たまたまテレビをつけていてこの番組に出合いました。この名著シリーズは他にも「ドラッガー」「ニーチェ」なども取り上げていて、興味がある人はNHKのサイトからバックナンバーを取り寄せるといいかもしれませんね。

いずれにしても、ちょろっと観たパンセにかなり惹かれてしまいました。たくさんの印象的な言葉が残っていますが、代表的な文章を紹介します。

人間というものは、どう見ても、考えるために創られている。考えることが人間の尊厳なのだ。人間の価値のすべて、その義務のすべては、正しく考えることにある。ところで、考えることの順序は、自分自身から始めることだ。いいかえると、自分自身を創った創造主とその目的から考え始めるのが正しい順序なのである(断章146)。

ちょっとキリスト教チックですけど、パスカルは考えることが人間の尊厳であり、価値や義務のすべてであると述べていますが、考えることと言うことが人間を不幸にするとも言っています。どういうことかというと考え始めると必然的に悲惨なこと、すなわち「死すべき運命」のことを考えるから不幸になるとパスカルは言います。考えることのプラスの価値とマイナスの価値を肯定しているのですからこれは矛盾です。しかしパスカルは、人間の悲惨とともに人間の尊厳がセットとして結びついていることが重要であると説きます。考えなければ人間ではない、考えることは悲惨なことと結びつくが、考え続けなければ人間の尊厳を失うのです。この部分は比喩を用いながら説明していますので、本当はもっと深く解説されています。しかし、考え続けることの意味を考えさせられます。

私たちの日々の臨床で、私たちはどれだけ考えているのでしょうか?一日を振り返り、「あの患者の症状は?」「あの患者の記述は?」「この訓練の目的は?」と考え続けているのでしょうか?これはかなり焦りますね。考えてないならパスカルに言わせれば人間ではないんだから。職業であるセラピストとして生きることを望むのであるならば患者について考え続けなければいけません。

本当にセラピストという職業に自分はあっているのだろうか?こんな疑問を感じたことはありませんか?少なくともセラピストになって一年目、僕はそう感じました。でもこのことについてもパスカルはパンセの中で記しています。

一生のうちでいちばん大事なのは、どんな職業を選ぶかということ、これに尽きる。ところが、それは偶然によって左右される。習慣が、石工を、兵士を、屋根葺き職人をつくるのだ(断章97)。

人間は、屋根葺き職人だろうとなんだろうと、生まれつき、あらゆる職業に向いている。向いていないのは部屋の中にじっとしていることだけだ(断章138)。

自分がその職業になるのではなく、その職業が自分を変える。私たちはセラピストになるのではなく、セラピストという職業が私たちを変えたのではないだろうか。そう思うと、自分はセラピストに向いていないなんて考えて不幸になる必要はないですよね。目の前の患者をどう治すかを考えるべきなんです、自分自身とその目的から考えを始めると言うことは自分がセラピストであるということとその目的から考えると言うことです。セラピストは患者を治すことが目的の仕事なんです。

職業に向いてる向いていないなんてことを考える前にすることがありますよね。少なくとも、今、目の前にいる患者にとってあなたはかけがえのないセラピストなんだから。

2012年10月2日火曜日

脳が生み出す心的イメージの謎

井内 勲(岡崎共立病院)

脳が生み出す心的イメージの謎
別冊 日経サイエンス 脳から見た心の世界part2 
発行:日経サイエンス社,2006.12.13

我々が日々の訓練で運動学習や、特異的病理のコントロールなどにおいて運動イメージを想起してもらう場面は多い。また運動イメージを使用することは、脳の活動においても実際の運動実行と運動イメージ中の活動領域にかなり共通しているという点や、運動のシステムとして、運動のプランニング、プログラムなどのより高次なレベルと関係するという点で、リハビリテーションの可能性を考慮する上で重要な意味があると言える。

しかし、臨床において患者に運動イメージを想起させるという事は非常に難渋する事も多く、本当に治療に効果的なイメージの想起が促せているのかと苦悩する。

今回『臨床のヒント』として紹介する文献は、心的イメージの生成において脳のなかで、対象の属性の関連づけによって構成されていると論ずるグループ(命題派)と実際の図形として表現されるというグループ(イメージ派)がそれぞれの論じており、未だしっかりと答えがない事や、イメージ(視覚)を思い浮かべる過程では、一次視覚野が活性化するという研究紹介など既に周知の事も多い。また、「心的イメージ」が「視覚イメージ」の内容であるため、直接的なヒントになり得るかどうかは読み手の現在の選択的注意の状況にゆだねる事がいつもより多いかもしれない。実際、自分もさらに悶々としてしまう部分もあった。しかしその中で最後の視覚表象と記憶の関連についてのエピソードが2例ほどあった。そこから日々の治療風景で、患者に「イメージしてみて下さい、出来ますか」とただ繰り返し問うだけではない、もう少し患者の回復に迫るべき運動イメージを促す為のヒントを自分は感じた。

先にも述べたようにこの文献だけでは不十分なテーマである、しかしイメージを治療のツールとする上でいかにそれを理解し、使用できるかという事はこれからも追求しなければいけない課題でもある。そのきっかけとして紹介したい