2014年10月18日土曜日

「環境との相互作用」について再度思う

尾﨑 正典(尾張温泉かにえ病院)

私事ではありますが、10月1日から新病院に移転し、病院機能のすべてを新病院に移行しました。何もかも新しく、何がどの位置にあるのかも、まだ把握しきっていない状態です。リハビリ治療に関しても、どこに自分の必要とする道具があるのかも、あまり把握できていません。しかし、人間は学習する動物であり、一度確認すれば記憶し再び必要となった道具の位置はだいたい記憶しています。まだ経験していない分からないことに関しては、スタッフに聞き、目的のものに到達する状況です。

階段一つとっても、前病院とは高さ、幅、素材、手すりの位置、明るさ、方向、何もかも違います。新病院という環境全体から得る情報は、膨大であり情報が脳を駆け巡っている状態です。現在、前病院との差異を感じ、常に環境と相互作用している自分を感じています。新病棟は4階にリハビリ室がありますが、一日に何度、いや何十回上がったり、下ったりしているのかは分かりませんが、階段の上がり下がりだけでも速度、幅など目的や内容により毎回違っていますし、身体が常に環境と相互作用していることを感じることができます。おそらくこの感じは、しばらくすると今ほど感じなくなってしまうとは思いますが。

「環境に慣れる」という言葉がありますが、「環境と相互作用する」ということを思い、常に感じている今だからこそ、感じるのですが、全く経験のない世界の中で、知覚・注意・記憶・判断・言語・運動イメージの認知プロセスをふむ経験をすることが、いかに大変であるかという事を自分自身で感じています。

認知プロセスの中でも現在、「記憶」という機能を意識の世界では前面に出ているように感じています。しかし、自分自身の無意識の世界では、他の機能が全面に働いているかもしれないとも思っています。

新しい環境の中で「環境との相互作用」「記憶」「過去の経験」など様々な経験をしばらくの間、しっかりと体験していきたいと思います。

2014年10月1日水曜日

生命の意味論

荻野 敏(国府病院)

多田富雄:生命の意味論(新潮社,1997)

休日に愛犬を連れて散歩に出かける。先日まで青々としていた木々が少し落ち着きを見せ初め、赤い衣をまとう準備をしているかのような森の様子を横目に見ながら愛犬と歩調を合わせる。ふと、気づくと甘い金木犀の香りが鼻腔をくすぐる。小学生のころ、当時流行っていた金木犀の香りのするガムを食べたくなり、校庭に生えている金木犀の花を取って口に入れようと本気で頭上の樹の花を見上げたことを思い出した。あれから何十年経ったんだろうか。しかし、相変わらず金木犀の香りは甘くて幸せな気分にしてくれる。来年も再来年も、この時期は金木犀の香りが嗅げるんだと思うと少しだけ楽しくなる。そのとき、娘はどの大学に行っているのだろうか、妻と一緒にどこに旅行に行っているんだろうか、自分は何に興味を持って働いているのだろうか、それは分からない。でもなぜかなんとなく幸せな気分になる。生きているんだと実感がわく。

多田富雄氏は1934年に茨城県で生まれた免疫学者である。数多くの免疫に関する研究をされ、多くの著作を残している。晩年は脳卒中右片麻痺となり、声を失うも執筆活動にいそしんでいた。保険点数改正によってリハビリ日数期限制度が導入された際に、「リハビリ患者を見捨てて寝たきりにする制度であり、平和な社会の否定である」と激しく批判し、反対運動を行ったことを知っている方も多いのではないだろうか。

先日、古本屋に足を運んだ際に、ふとこの本を見つけた。もちろん多田富雄氏の本は何冊か持っているが、この本は持っていない。ページをめくり、目次を見てみると刺激的な内容が並んでいる。その見出しは免疫学という枠を明らかに飛び出している。第1章から第10章までを列記してみると

第1章 あいまいな私の成り立ち
第2章 思想としてのDNA
第3章 伝染病という生態学
第4章 死の生物学
第5章 性とは何か
第6章 言語の遺伝子または遺伝子の言語
第7章 見られる自己と見る自己
第8章 老化-超システムの崩壊
第9章 あいまいさの原理
第10章 超システムとしての人間

こんな感じである。

免疫を知るためには「自己」を知ることを避けて通れない。一見、生理学的な反応と思えるこの免疫がなぜ「自己」と深く関係しているのか。多田氏は免疫系の発生の仕方を、動物の個体が「自己」と「非自己」を識別して「自己」の全一性を護る機構であると説明する。考えてみたら当たり前の話で、「自己」を「非自己」と認識して自分を攻撃してしまっては生存が危ういし、「非自己」を「自己」と認識してしまっても生きていくことはできない。前者が自己免疫疾患で後者が免疫不全疾患である。多田氏は、生命機械論的なメカニズムに支えられながらも、やがて機械を超えて生成してゆく高次のシステムとしての免疫系を、「自己」というものを自ら作り出してゆく「超(スーパー)システム」と見る立場を強調している。この「超(スーパー)システム」としての人間を理解するためには、目次の見出しのような幅広い見識が必要になるのは、当然であろう。

多くの内容が深く考えさせられる見解であった。それらをすべて列挙することはできない。でもひとつだけ、印象に残ったことを書き記してみよう。それは第4章の死の生物学に書かれていた内容である。まず、多田氏は冒頭に

驚くべきことに、生物学には「死」という概念がなかった。

と、書いている。高名な生物学者に死とは何かとたずねたら「生きていないこと」という答えが返ってきたそうだ。生命現象を研究する学問である生物学は生命現象のなくなる死は研究対象外らしい。確かに、医学において死は敗北を意味する。死なないように生かすのが医学だ。それは正しい(と思う)。しかし、我々人間の致死率は100%であることもまた事実だ。ある学者が「我々は死ぬために生きているんだ」というような言葉を述べたというのを読んだ記憶がある。死は恐怖であり忌み嫌うものであり、避けるべきものであるという認識は理解はできるが、死ぬときは死ぬ。そのためにどう生きるか、ということに最近ずっと思いを馳せていた。内容があまりにもタイムリーだったので、浸み込むように文章が入ってきた感じがした。

この本とは関係ないが、ファーブル昆虫記でおなじみのファーブル博士も、愛息子を若くして亡くしたのちに死について考えるようになったそうである。昔、蠍は火に囲まれると自分で毒を打って自死すると言われていたそうだ。ファーブル博士は実際に蠍を火で囲んで確認したそうである。一見すると自らに毒針を打ち込んで息絶えたかのように見えるが、実は単に動かなくなっていただけで、火が治まればまた動き出すそうである。自死する生物は人間だけだそうだ。もちろん、細胞単位ではアポトーシスする。しかしそれは「超(スーパー)システム」としての人間を維持するための戦略であり、個体としての崩壊、つまり死を自ら選ぶことをするのは人間だけなのだ。だから、人間は死の意味をもっと深く考えなければいけない。

家族と笑いあい、美味しいものを食べ、愛犬と散歩し、自然の移り変わりを全身で感じ、金木犀の甘い芳香を楽しみ、過去を想起して、未来を想う。

今、私は生きている。