2013年12月15日日曜日

音階

荻野 敏(国府病院)

前回、前々回のヒントでなんとなく経験談の話の流れなんで、僕も経験談を少しだけ。

娘がまだ小さかった頃、僕の妻が娘にドレミファソラシドの音階を教えていました。僕が帰宅をすると、妻は不機嫌そうに娘に音階を教えていたんです。でも娘はまったく理解できない様子でした。娘の目には涙が溜まっていて今にもあふれそう。妻はなんでわからないの!といった様子で音階を指差して「これがミでしょ!」とか教えている。とっさに僕は今の状況を感じ取って「この教え方じゃダメだ」と思いました。

すぐさま妻に「俺が教えるよ」と言い、妻をキッチンへ行かせ、僕は娘を膝の上に乗せて音符の書かれた五線譜を一緒にのぞきこみました。

「これはなに?」と聞いても娘は「??」といった様子で答えられない。でもちゃんと鍵盤をたたいて音階を鳴らすとそれは理解できています。つまり音階と言うものがあることはドレミファソラシドといった音の周波数レベルでは理解できているのですが、それがこの周波数が「ド」、この周波数は「ファ」といった言語のレベルで結びついていないようでした。しかも、それが五線譜といった何本も線が書かれた図の中に黒い丸が書かれているという視覚レベルと結びついてもいないのです。

「よーし、じゃあ目を隠して当てっこね」と言って僕は娘の目を手で隠し、音階を鳴らしながら「これが“ド”だよ、ここの丸ね」と娘の手を持って指先でその黒丸の位置に持って行きました。「こんどは“レ”ね、ここだよ。どうなった?」と聞くと「離れた」(ここで娘が離れたと言ったのか遠くに行ったと言ったのか上に行ったと言ったのかは記憶が定かではありません・・・)と答えました。その調子で音階をすべて聴覚・視覚・言語・体性感覚で経験さえて、実際に認知問題を出してみます。「じゃあ、これが“ド”だよ、二つ上に行くと何かな?」と手を持って二つ上に動かして問うと「ミ」と答えます。じゃあ「これは?」と基準となる位置を少しずつ変えながらいくつかの問題を出してみました。それなりにわかってきたと思ったところで、実際の五線譜を見せながら、「これは?」と聞くとドレミファソラシドがすでに言えるようになっていました。この間、ものの10分足らず。子供の学習能力は高いのかあっという間に聴覚・視覚・言語・体性感覚の関係性を理解して記憶してしまったのです。

僕は娘にいろいろ教えました。ローラーブレード、自転車、一輪車(これはもう乗れないみたいですが)など。自転車は補助輪を一度もつけていないし、一度も転ばずに覚えました。親になり、子供と遊びや学習を共にしていきながら、認知運動療法を勉強してよかったなと思うことが多々ありました。

でも娘はそんなことをまったく覚えていません。僕に教えてもらったということを一切否定しています(笑)。かろうじて妻が肯定してくれていますが。そこまで娘にかたくなに否定されると僕の記憶違いだったんじゃないかって不安になるぐらいです。覚えること・学習すること・その記憶があやふやになることもすべて人間の脳の不思議だなあって思いました。

2013年12月2日月曜日

痛感

岡崎共立病院 井内勲

前回の首藤先生に続いて体験談、その2という感じになってしまいますが、最近ランニング、筋トレを始めました。きっかけはともあれ、情けないことに数回目にしてランナー膝のような症状が出現。これをきっかけに日常生活において腸脛靭帯の有難さを体感できたのは良かったのですが、結構これが痛く、立ち上がりや歩行に痛みの影響が強く出ました。

また時期的にも慢性でないにもかかわらず、確実に自分の身体図式を疑うようなエピソードも多々ありました。例えば、少々慌てながらのスタッフルームでの移動中に、机とスタッフの間をうまく曲がれず机の角で腰を強打…その日、朝からの逃避歩行は周知されていたのでスタッフからは、「身体イメージまできてますよ。」と失笑されてしまう始末。

当然、症状が出て疼痛の強い時は、膝は過剰に負の刺激を伴いながら存在(膝の身体部位すら大きく感じるほど)していました。そしてそれは立つことすら億劫にするだけでなく、徐々に恐怖に似た嫌悪感も加わりいつの間にか立ち上がる時、痛みのチェックというより、むしろ探すように痛みを意識している自分がいることに気づきました。そうなると自ずと立ち上がり動作に手を使って代償してしまうのですが、すぐに代償行為は当たり前のように自然に立ち上がり動作の一部となっていました。またその立ち上がり行為は初動時から無意識に重心をほぼ反対側にシフトし、むしろ動く前から予測的に抑制しているようであることに気づきました。「これではいけない」と思い、上肢で代償するのだからせめて意図的に重心だけでもまっすぐにしないといけないと、患側坐骨に重心をシフトせた瞬間に「痛い!・・・かも。」と一瞬、疼痛にも似た刺激が、恐怖を助長しました。

このようなことから自分の痛みの情動的な側面は確実に予測や注意、記憶といった高次機能にも影響いている、と思った時、疼痛の急性期と慢性期はどこまで急性疼痛で、どこからは慢性疼痛と時期的な境界というよりも、こんなことの積み重ね、不快な経験の重積なんだろうなと感じました。

治療において疼痛を出さないようにすることは当然ながら、早い段階から疼痛の情動的側面や、認知的なプロセスを踏んだアプローチを丁寧に試みないといけない、と再確認させられました。
まさに身を削っての痛感ですね。

2013年11月17日日曜日

熱発してみて

首藤 康聡(岡崎南病院)

先日、40℃近く熱を出してしまい、数日間苦しんでしまいました。幸いインフルエンザではなかったのですが、流石にこれだけの高熱だと身体にも異変がでてきます。

夜間の事です。あまりに苦しかったのですが、その時の僕の手は痺れ、まるでグローブのように大きく腫れている感じになっていました。つまり僕の身体イメージが変質していたのです。「あ〜風邪でも身体イメージは改変してしまうんだな」なんて考えていたんです。これが発熱の問題なのかどうかわかりませんし、風邪によって何らかの理由で体性感覚情報の問題が生じたかもしれません。ただこの事は臨床家としてすごく大切な事に気がつかせてもらえたような気がしてなりませんでした。

それは身体イメージの変質が体性感覚情報の問題以外で起こる可能性があるという事です。我々は身体イメージの変質が体性感覚情報の問題で起こる事は知っています。しかし、知っているがために理由がそれであると決めつけてしまいがちです。いやそれしかないと決めつけてしまいます。そのため臨床ではそのための介入方略しか提供していませんし、結果が出てこない事があることを経験します。それは我々が自分の知っている内容で問題を評価し、解決しようとした結果です。またもし問題が解決できない場合その原因を自分以外のところへ持って行こうとします。それでは問題解決にはなりません。

知る事で盲目になることもあれば、知らないがために盲目にもなりやすい。なんだかポパーの反証可能性につながりそうだなと、そんな事を思う真夜中でした。

2013年11月2日土曜日

方向転換動作・着座動作

佐藤 郁江(岡崎南病院)

歩行関連動作のバイオメカニクス-方向転換動作・着座動作/櫻井好美等著
PTジャーナル第47巻第6号2013年6月

理学療法士である私は、歩行という視点は常に持っている。しかし、歩行をするためにはそれに関連する動作が存在している。当たり前のこととしているがこの動作が重心移動の観点からも難しいことが多い。ここで述べられているのは方向転換動作と着座動作である。実際に動作として行うことが多いのは歩行よりも先に移乗動作が多くこの方向転換動作、着座動作は重要になってくる。ここでも書かれているが体幹、下肢、(上肢:着座動作において)書かれている。私は前回の勉強会のコーディネータで立ち上がり動作のシステムについての検討を行った。立ち上がりにおいても体幹、下肢、上肢と関わってくる部分が多くなっている。わたしの中で立ち上がり動作は歩行を行うために必要な動作の一つである。それと同様に着座動作も歩行を行うために必要な動作である。そこで着目していくと文献の中で「着座時動作時では重心を下方、後方に移動させる。このとき下方移動と後方移動が同時に起こると、重心は動作の初期から支持基底面から外れてしまい、後方へ回転し尻もちをついてしまう。そのため健常人では体幹前傾と下肢の屈曲が開始される前に足関節を軸として身体をわずかに前方に回転さている」と書かれている。この足部背屈時の前方へのわずかな重心移動が着座時の転倒を避けるための一つの方法であると考えられる。いわゆる、ドスンと座る時の一つの制御すべき点であると考えることができる。最後に「本稿では運動学・運動力学的視点でのポイントを取り上げたが、運動学メカニズムとそれを制御する神経学的メカニズムを熟知し、患者の運動能力の問題点とその原因を理解したうえで理学療法を提供する必要がある」と書かれている。そのためこれだけでは足りないのだが、この視点もとても重要な視点になってくるため、もう一度考え直すきっかけとなったものであり、皆さんのご意見も聞かせていただけるとありがたいです。

2013年10月15日火曜日

ヒトの心はどう進化したのか

尾﨑 正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)

鈴木光太郎著 「ヒトの心はどう進化したのか」(ちくま新書)

認知神経リハビリテーションは「心」を考慮した治療です。ヒトが進化していく過程で心がどのように変化していったのかを学びたいと思い、この書籍を手にとってみました。

ヒトはチンパンジーと共通の祖先から分かれて600万年が経過し、進化を遂げたのは身体のみではなく「心」も進化していった。何がヒトをヒトとたらしめているのか、なにが私たちの特徴なのか、この書籍はこれらの問題に「心」の進化の視点から迫っています。

チンパンジーとの違いを大きく分けると6大特徴があり1)大きな脳 2)直立二足歩行 3)言語と言語能力 4)道具の製作と使用 5)火の使用 6)文化であると述べています。もっと細かな特性は書籍の中で一覧表が掲載されています。

ヒトは生物として生きていく最低の能力が揃うのに、生後1年かかると言われており、子どもは1歳以降、能動的に様々な知識や能力を急ピッチで身につけていく。その中で最も重要な一つは「ことば」であり、そして、もう一つ「心の理論」の能力であると著者は述べています。

チンパンジーが実験において「心の理論」をもっていないということが分かったことにより、ヒトがチンパンジーと共通の祖先からヒトへの進化の過程で「心の理論」が出現したものであることを意味します。

私たちは相手の心を「目」を手がかりにしています。「目は口ほどにものを言う」という表現があるように、ヒトは気になるものに目を向けないでいることが、なかなかできません。同様に相手の目の向きを気にしないでいるのも難しく、会話の中でも相手の心のうちを知るために「表情」は重要な手がかりになります。
また、他者の視点に立つことができる能力も重要なポイントであり、他者に何かを教える場合に教える側本位ではなく、教わる側に立つことによって、適切な教え方が可能になります。

セラピストと患者を教師と学生の立場として治療を行う認知神経リハビリテーションでは重要な視点であり、自分が仮説を立て検証する治療を患者の立場で考え、さらに検証していくことで結果の出せる適確な治療に結びついていくことができると考えます。

その他、書籍の中では「模倣」「ミラーニューロン」などが述べられています。

私は、この書籍を読んでいるうちに治療の中で「表情」「目」「他者の視点に立つ」など患者の「心」に自然と触れあっていることに気づきました。「心の理論」は認知神経リハビリテーションを学習していく上で必ず学ぶ理論ですが、地球上で「心の理論」を持ち得ているのは、私たちヒトだけであることを考えると、ヒトを治療しているセラピストは「心の理論」を学習しておく必要があることが理解できました。

2013年10月1日火曜日

特集 看護のチカラ

荻野 敏(国府病院)

現代思想 2013 vol.41-11 8月号
特集 看護のチカラ

つい最近出た現代思想。特集は「看護のチカラ」。そうそうたる顔ぶれが執筆者に挙がっている。中には木村敏先生や鷲田清一先生の名前もある。この本もたまたま豊橋の精文館書店に行ったときに見つけた。現代思想は時々チェックしているのだが、最新号がこの号だったのだ。目次だけ見て「これは買わねば!」と思い、即買いしまった。現代思想って雑誌を知っている人は分かると思うが、とにかく内容の量と質がハンパなく膨大だ。だから実は僕もまだ完全に読みきれていない。読みきれていないが、少し読んだ中で秀逸なのが、鷲田清一先生の書いている「《臨床》というメタファー」だ。たった3ページのエッセイだが、心に沁みる。鷲田先生は《臨床》というメタファーに託されているものが5つあると言っている。

第一:床(クリネー)に伏している人のところへ出向く医療者のわざ(クリニケー)

第二:多義的なものを「みる」ために専門的知見をいつでも棚上げにできる用意がなければならない

第三:「看る」ために使えるものはなんでも使う

第四:探求のセンスというべきものが不可欠

第五:モノローグであってはいけない、誰かに向けて届けられるものであり、宛先を持つ

一見、何を言っているのか分からないかもしれないが、通して読むと看護だけでなく僕ら医療従事者全体に相当に深く関わる内容がそこかしこに散らばっているエッセイだ。

また、この特集の中ではやたらとメルロ=ポンティという名前が出てくる。もちろん名前だけでなくその思想が深く影響していることが伺える。

「モーリス・メルロ=ポンティの著作は、看護研究を進展させるためのきわめて優れた哲学的基礎を与えてくれる」(サンドラ・P・トーマス著、現代思想2013 vol.41-11 8月号p166)

身体を触れるという僕達の職業は、根底で看護と非常に深く繋がっている。看護学が哲学や質的研究を取り入れて人間を考察して行っているのに、僕らはいったいどこで立ち止まっているのだろう。「運動」の前に「行為」を、「行為」の前に「人間」を知るべきだ。

深く反省されらるとともに、秋の夜長、布団の中でしばし哲学的思考の時間を楽しむ喜びに若干わくわくしている自分がいる。

2013年9月17日火曜日

学力テストをやってみた―考える力 引き出す教育を―

井内 勲(岡崎共立病院)

学力テストをやってみた―考える力 引き出す教育を― 中村桂子(JT生命誌研究館館長)

先日、全国学力・学習状況調査がおこなわれ、9月11日の中日新聞、文化面にその学力テストから考察される内容を筆者の見解を踏まえ、「考える力引き出す教育を」というサブテーマにて述べられていた。

その大筋としては、4年ぶりの小学校六年生、中学三年生の全員参加のテストから、

・都道府県別の正答率の順位の関心にとどまらずに、大規模テストから見えてくるのもをていねいに考察することで、まずは平均正答率からの評価視点は難しいが、地域差が少なくなり、レベルが上がっているということがうれしい点である

・しかし日常生活をするうえで重要な力である、与えられた資料を読んだうえで自分の考えを書く、解答の理由を論理的に説明するなどの力を試す応用問題において、正答率がはっきりと低い

・応用問題に今回初めて解答できなかった児童、生徒は、「解答を文章で書く問題だったので」や「(算数でも)問題文の意味がわからなかった」と、文の内容を論理的に追ったり、文を書いたりする訓練の不足が理由としてあがっている

・重要なのはこのような児童、生徒たちがわからないからといって、最初から考える事を諦めている様子がみえるという点である

・この結果はこども達の問題としてだけで捉えるのではなく、大人である私たち自身が書かれたものをていねいに読んで、じっくり考え、自分の意見を組み立てていくこと、それを論理的に説明することを不得意としていないか

と述べている。

「考える力引き出す教育」というサブテーマを一見し、臨床場面で患者が認知問題に対して知覚仮説を自らが立て、身体を介しての情報構築する力を引き出せる良い方法のヒントがあるのでは、と安易に考えて読み進めた。

しかし筆者は、『近年情報化が進み、断片的知識ですますことがふえている。子どもは社会の鏡であり、子どもの点数をあげる方法を考える前に、大人が考える人にならなければいけないという教訓をここから引き出したいと思う』と述べている。

それは、いまし方の自分自身の臨床において、様々な知見や情報を断片的に収集しその知識をならべ、さももっともな事のように容易に納得しているのではないか、と痛感させられた。

まず患者の考える能力をあげる方法を考える前に、セラピスト自身がじっくり、ていねいに考える人にならなければいけないという教訓をあらためて認識させられた。

最後に筆者は、憲法改正を練習問題として、憲法を読みじっくりと考え、自分の意見を組み立て、小学生、中学生の関心を持たせること、そして一緒に考えることから教育を始めたら面白いとも述べている。

まずは患者自身が自己身体に関心をもつ(もってもらう)、それを一緒に考える、ということから前進したい。

2013年9月1日日曜日

ライダー変身!!!

首藤 康聡(岡崎南病院)

皆さんは仮面ライダーをご存知ですか?というか知っていますよね。○○ライダーがこんな恰好だとか、必殺技はこうだとか細かい事は知らなくてもこのヒーローの名前を聞いた事が無いという方はいないですよね。昨年(?)リメイク版の映画も上映されたサイボーグ009の原作者、石ノ森章太郎先生の代表作ですよね。って知らない方も多いですかね。1978年に初代仮面ライダーが放映されてから現在の仮面ライダーウィザードまで続いているヒーロー戦隊やウルトラマンと並ぶ日本のヒーローですよね。ちなみに現在放映中の仮面ライダーウィザードは魔法使いの設定で、次回作の仮面ライダー鎧武は戦国武将がモチーフでフルーツを使って変身するそうです。今からどんなストーリーになるのか楽しみなのは僕だけでしょうか?いやきっと小さいお子さんを持つ、お父さんセラピストも気になっているはずです。ちなみに日曜日の朝8時から朝日系列で放送されていますのでたまには童心に帰ってみるのもいいじゃないでしょうか?

さて、皆さんは小さい頃に仮面ライダーごっこをして遊びませんでしたか。きっと友達同士で仮面ライダー役とショッカー役(世代で違うし、今回の話は男性向きですね)にわかれて戦いごっこをしていたと思います。というかしてましたよね?僕らの世代だと1号と2号やV3になりきってごっこ遊びをしたんですが、皆さんは1号と2号の変身ポーズが違っているってご存知ですか?同じようにベルトの風車を回して「ライダー変身!!!トーッ」と掛け声をかけて変身するのですが、腕の動きが違うんです。ユーチューブなどで確認してみてください。そうするとその違いは一目瞭然です。

なんだかマニアックな話になってきましたが、面白いのはここからです。僕を含め、ごっこ遊びを楽しんでいた友達は1号と2号の変身ポーズの違いに気づき(情報の差異)、テレビで1号と2号の変身ポーズの違いを確認しながら実際に真似をして(視覚から体性感覚情報への変換)、次の日に友達とごっこ遊びをしてその友達に微妙な腕の違いを指摘され(他者とのやりとり)、自分が覚えた変身ポーズとの違いを修正し(内部モデルを利用した誤差学習)、家に帰ってテレビを見て「この肩の動きが違う」とか「腕の角度はこのぐらい」など様々な情報を得て(エラー情報を含めた求心性情報の統合)、変身ポーズを修正(運動プログラミングの修正)していきます。この様な事を繰り返していくと、1号と2号の変身ポーズを使い分ける事ができる(運動の自由度)ので、しっかりと1号も2号も演じる事ができるようになります。

さて皆さんこの話って少し認知神経リハビリテーションの流れに似ていると思いませんか?つまり、一見難解で理解に苦しむ認知神経リハビリテーションを皆さん自身がすでに経験しているという事なんです。認知神経リハビリテーションは麻痺からの回復を運動の再学習として捉えています。このような視点で考えると、当然学習とは何か、学習とはどのようなメカニズムで行われているのかなど多くの事を学ぶ必要があります。しかし、それは決して手の届かないような距離にあるのではなく、常に我々の身近にあり、そして誰もが経験している当然の出来事なのです。

さて、マニアのセラピストの皆さんは1号の初期には変身ポーズが描写されていない事はご存じでしょうし、もっと突っ込みたくなるのもわかります。ですが今回はお許し下さい。

2013年8月16日金曜日

魔女の宅急便 その2 キキと新しい魔法

佐藤 郁江(岡崎南病院)

魔女の宅急便 その2 キキと新しい魔法
角野栄子作  福音館文庫

ジブリ作品としても有名な魔女の宅急便、児童書に原作がありその続編があったので気になって読んでみました。その2は1993年に出版されています。2009年に6まで出ており成長の過程が見られますが、私も最近気づいたためまだすべて読めていませんがこんな風に成長していっているのかと楽しく読んでいます。

このその2の中にカバのしっぽがなくなったことにより、歩き方もふらふらとしており、心と体の中心点行方不明病で病院まで運んでくれと書かれていました。中心点行方不明病の改善はしっぽを戻すこと、本物のしっぽがあると思ってもらって、ホッチキスでくっつける。そんな治療をしていました。実際にはこのような病気はないと思いますが、身体の一部がなくなっていると感じている時には実際に本人があると感じてもらうことで動き方が変わってくると考えられます。もちろんそのために何が必要なのかを考えなければいけません。

2013年8月1日木曜日

OTの臨床実践に役立つ理論と技術

尾﨑 正典 (尾張温泉リハビリかにえ病院)

OTの臨床実践に役立つ理論と技術―概念から各種応用まで
作業療法ジャーナル6月増刊号 (三輪書店)

本書の目的として書かれているのは、多くの臨床家に作業療法と関連の深い理論・技術の概要を示すことである。筆者の方々には、各理論・技術の成立過程と変遷、適用範囲(対象とする疾患や障害)と限界、具体的方法とエビデンス、今後の展望等について解説されている。

臨床家が様々な理論・技術の概要を知ることができれば、自ら学ぶべきものの選択が可能になる。自らの関わる分野に限定せず、広い視野で理論・技術を眺めた時に、たとえそれが他分野で発展してきた理論・技術であっても現在の臨床に有益であることに気づけるかもしれない。このような気づきを得て多くの理論・技術を習得しようとすること、すなわち対象者によりよい臨床活動を提供しようと努めることは、臨床家にとってあるべき姿ではないであろうか。多くの理論・技術を学び、しかしそれに拘泥せず、対象者の疾患・障害・時期に応じて使い分ける。そのような柔軟な姿勢と実践力を有する臨床家が求められていると思うのである。と編者の代表者は述べている。

内容は、「中枢神経系」、「筋・骨格系に関するもの」、「内部障害に関するもの」、「環境と動作・行動に関するもの」、「精神・心理に関するもの」、「さまざまな疾患に適応となるもの」が書かれてある。いわゆるファシリテーションテクニック、反復性経頭蓋磁気刺激、CI療法、川平法、認知神経リハビリテーション、など現在臨床で行われているものが書かれている。

編者の代表者が述べているように、確かに現状臨床現場で行われている治療を知っておくことにこしたことはないし、新しい思考が生まれるかもしれない。
一度、日本で行われている様々な治療を学習し、認知神経リハビリテーションとの理論の違いや治療に対する思考の違いを比較、検証して見ることも重要ではないかと思う。

2013年7月15日月曜日

哲学的な何か、あと科学的とか

荻野 敏(国府病院)

飲茶 著:「哲学的な何か、あと科学的とか」(二見書房)

人をくったようなタイトル。このタイトルが、不思議と目にとまって書店で手を伸ばしていた。著者もぶっちゃけ知らない。著者紹介にも本名は書かれておらず、出身は北国生まれと。ふざけてる(笑)

気付くといつものように目次をぱらぱらめくっていた。そこに飛び込んできたのは「我思う、ゆえに我在り」「言語ゲーム」「多世界解釈」「反証主義」「ポパーの決断」などなど、好奇心を駆り立てる内容の数々!!

横書きの文字に大き目の文字で非常に読みやすい。いきなり「ルイス・キャロルのパラドックス」なるもので論理すら証明不可能なものと切り捨てる。帰納主義や反証主義などを平易に解説し、かつその問題点も挙げている。「反証主義の問題」では人間は反証すら確実に行うことはできないと。そして「ポパーの決断」ではポパーの言葉を引用して、「何らかの科学理論を構築するためには、どこかで疑いを止める地点を〈決断〉しなくてはならない」と記載している。

ドラえもんを引き合いに出して多世界解釈の解説をしたり、どこでもドアの思考実験では少しホラーチックな例を挙げてみたりと、気を抜いて読める一冊である。

こういう本を読むと、僕らが生きているこの世界は、不思議な事ばかりなんだな思える。

世界は狭い?

いやいや、世界は知らないことが多すぎるから広い!

無知の知を感じられる本だ。

2013年7月2日火曜日

中田敦彦×映画宣伝プロデューサー

井内 勲(岡崎共立病院)

NHK仕事ハッケン伝 season3「#11 中田敦彦×映画宣伝プロデューサー」(NHK総合 2013年6月27日(木) 22時00分~22時50分放送)

食後、一日の情報をチェックするためにTVチャンネルを合わせる事は多いが、この日はただ目的も無くTVの番組を模索していた。その時に偶然見付けた番組、『仕事ハッケン伝』の中に今回ヒントを感じたので紹介したい。

この番組は、毎回各界で活躍する著名人が“やってみたかった仕事”に一週間ガチで挑む姿を追うドキュメンタリー。時には自分のふがいなさに涙し、時には仲間と共に成し遂げた達成感に涙する。本気で働くからこそハッケンできる、仕事の醍醐味や、自分でも気づかなかった新たな才能。そんなアツき姿に多くの反響があるようだ。(「NHK仕事ハッケン伝」ホームページより)

さて、自分が視聴した回は宮崎駿監督、最新作「風立ちぬ」の宣伝部長に、オリエンタルラジオの中田敦彦が抜擢され、「全国紙の一面広告をデザインせよ」というミッションを課せられる。そして中田が自らの仕事感と持ち前のバイタリティーで、スタジオジブリの映画宣伝プロデューサー鈴木敏夫氏(上司)からの課題(広告の絵とコピー)を順に遂行する中でのやり取りを通じて、仕事に対して新たな志向性、仕事術をつかんでいくという内容だった。

まずもってインテリ芸人中田の仕事に対する姿勢や方法、集中力に驚かされたが、とても興味深く見入ったのはプロデューサー鈴木氏と中田との話し合いであった。この中に我々にとってのヒントいくつかあった。

・“作品”は自分一人ではできない。
・アイデアはひとりじゃ行き詰る、だからみんなと話し合う。話しながら出てくる。
・しかし関係者はルーティーン化している。
・大勢の人と話せば話すほど良いものが出来る、皆の意見を聞いて選ぶ
・また巨匠・宮崎駿氏も同様に色々と他者に聞く
など

詳細内容は、再放送が7月3日(水) 16時05分~16時53分にあるので、ぜひお薦めしたい。

我々の臨床場面でも対象に一人で向かっている時は行き詰る、しかもそれは必ずある。そんな時はどうするか、それを考えながら視聴した。
先輩、同僚、後輩に意見を聞いたり、他の視点から気づかされることも多い、また時には学生指導しているときの会話から生まれることもある。そんな話し合い、意見交換、建設的な批判の場として、日々の訓練室はもとよりetca勉強会や学術集会、さらには広い視野で多くの場を利用していく必要があると感じる。

また中田の最後のプレゼンテーション場面は、個人的に自分の臨床以外の仕事の部分でも鈴木氏の会話は胸を突いた。

・意見を出し合って人の良いところを引き出させる、アイデアを出し合う事で良いものが完成する、って事だ。
・もし『君の案はダメだから、自分で考える。』ってやったら、それはオレの負け。
・誰にでも一つは良いものを持ってる、それを引き出せなかったら僕の負け。

と・・・最近かなり自分は負け込んでいる気がした。

2013年6月16日日曜日

日常にある臨床のヒント

首藤 康聡(岡崎南病院)

先日、子どもの授業参観に行き、その後にPTAが主催する教育講演を聞いてきました。内容は親業についてでした。もし、ご興味があれば以下のサイトを覗いて見てください。(https://sites.google.com/site/fureaicom/)

僕はこの講演を聞きながら、ミラーニューロンや心の理論、間主観性などを思い起こしていたんですが、当然PTA会員に向けた一般的な話なので、このようなキーワードは出てくる事はありませんし、そこを意識した講演をされたかどうかはわかりません。ただ僕には少なくとも今までの知識を確認する事が出来たのは事実ですし、これまで学んだ知識が普段の生活の中でこのように使われているんだなと確認し、そして講演で学んだ事を自宅で実践し結果を残す事が出来ました。細かい内容はプライベートなので話せませんがこれって認知神経リハビリテーションの考え方に似てるなって思いませんか?

僕は講義(=訓練)を通して日常(=行為)との比較を行いながら学習して行くことが出来たのでまさに行為間比較の考え方ではないでしょうか?

さてここで僕が言いたいことは行為間比較の考え方がこんな場面にも潜んでいたということです。臨床のヒントはいつでもどこでにでも転がっていると思います。それを見つけて行くことがまた自分の臨床の幅を広げていくのではないでしょうか?いかがですか?皆さんは日常の中にどのような臨床のヒントを見つけていますか?

2013年6月1日土曜日

「ゆる」身体・脳革命

佐藤 郁江(岡崎南病院)

「ゆる」身体・脳革命(講談社+α新書)  高岡英夫著

身体と脳という文字に惹かれて古本屋で手に取った本です。作者の高岡先生は現在運動科学総合研究所の所長をしておいでで何かヒントになるかと読み進めていった本です。この本の中での説明で「筋肉が長いタイプは身体が柔軟だけれども反応が遅い。反対に骨が長くて筋肉が短いタイプは、反応は鋭いけれども筋肉の疲れが抜けにくく、筋肉自体、そして骨や関節を痛めやすいものです」と述べられていました。つまり、患者さんとしてやってくる人は筋肉が短いタイプの人がさらに短くなっているということが多いのではと考えられることです。私は筋がさらに短くなっているということは筋収縮が起こっているのではと考えました。

筋収縮においての筋小胞体からCaイオンが筋細胞内に遊離され、収縮の化学反応がフィラメント間に生じています。そして再び筋小胞体にCaイオンが取り込まれることにより弛緩します。エネルギー源としてATPが関与しています。しかしATP分解による化学エネルギーがどのように機械エネルギーに転換されて収縮が起こるかはよくわかっていません。しかし、収縮時にエネルギーが必要とされていると考える方が妥当だと思います。

そうすると短い状態の人は収縮が常に行われていると考えると疲れが抜けにくい。また作用筋と拮抗筋と共に短い状態になっているということは関節の圧を高めるような作用が働いていると思いました。

そして拮抗筋が短くなっている(収縮している)のであれば、作用に必要な筋にもさらに負担がかかる状態にあると考えられます。

そして本の中ではゆるめると表現をしているのですがそのために必要なこととして「むやみにゆするのではなく、一つ一つの骨の位置や隣の骨との関係を正確に意識しながらゆらしてやることが大切です」と書かれています。身体意識に対しても研究されているようで今後も興味深いことがありました。

筋収縮の方に意識が向きがちなのですが拮抗筋に対しては弛緩することの大切さを改めて考えさせられた本です。もちろん筋出力がなくなってしまう状態は動けないのですが、リラックスできる状態は改めて大切だと感じさせられました。

2013年5月16日木曜日

尾﨑 正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)

師  KKベストセラーズ

私は治療のヒントが何かないかと、スポーツや教育に関する書籍を参考にすることがある。指導者である師からアスリートへの指導方法は種目や性別などにより様々なかたちがある。人は人生の中で様々な師と出会い学ぶ。師の言われる一言が、後の人生に大きな影響を与えることは少なくない。

認知神経リハビリテーションのアプローチは教育的アプローチであり、患者とセラピストの関係は学生と教師の関係にある。

教師は学生にどのように教えていけば、きちんと学習されていくのかを常に考えている。私たちセラピストも常に結果の出せる治療を行うために、患者の病態を観察し思考している。

この書籍は6競技のメダルを狙う日本代表の選手たちと恩師の話が書かれている。

「育てるとはどういうことか」「教えるとはどういうことか」という悩みや、苦労を経て、どのようにそれぞれの指導者たちが、アスリートたちに指導をし続けてきたのか。また、アスリートたちを育て、一緒にぶつかってきた恩師たちの言葉が紹介されており「育てるということ」「何かを伝えること」へのヒントが書かれている。

アテネ・北京五輪平泳ぎ金メダリストの北島康介のコーチである平井伯昌氏は「選手一人一人をじっくり観察して選手に合わせたアプローチをすること」「基礎知識を大切にした上で、現場で起こっていることから学ぶっていうことをしないかぎりは、ただの空想になってしまう危険性がある」と述べている。臨床現場で私たちが治療の中でおこなうことに類似する。患者の病態は一人一人違うためセラピストは観察、評価を的確に行い、患者にどのような治療を行えばより良い結果が出せるのであろうか、リハビリテーションの知識や様々な分野から学んだ知識を総動員し、患者の脳や身体に何が起こっているのかを仮説を立て、検証していく。

この書籍は様々な種目や性別の違う中で監督、コーチが何を考え、どのように選手たちに指導したかが書かれてあり、個々の指導者の考えは異なり、様々な方法が展開されていることを知ることができる。目の前にいる患者の病態、性格、人生経験はそれぞれ異なり、決して治療者の固定化された一つの思考では適確な治療にはならない。

指導には様々な方法があり、色々な角度からの指導方法があることを知ることができ、治療の参考になる書籍である。

2013年5月2日木曜日

世界を、こんなふうに見てごらん

荻野 敏(国府病院)

世界を、こんなふうに見てごらん(日高敏隆著:集英社文庫)

この本との出会いはセレンディピティだ。僕は中日新聞の日曜版に掲載される本の特集が好きで、楽しみにしている。ある日曜日の朝、いつものように朝食を済ませてコーヒーを飲みながら中日新聞を読んでいると、この本の書評が書かれていた。日高先生の名前はもちろん拝聴したことがあった。なんといってもユクスキュルの『生物から見た世界』の翻訳者であったからだ。書評には日高先生が生物学者であり科学者である視点で書かれたエッセイ集と評せられていた。

「面白そうだな」

なんとなくそんな気持ちになって、いつかはこの本を買ってみようと思い、いつものように携帯電話を取り出した。何をするかというと、携帯電話のカメラでその書評部分を撮影するため。僕にとって携帯電話のカメラはコミュニケーションツールではなくあくまでメモ帳だ。撮り終わってまたコーヒーを飲み始めていると妻がリビングにやってきた。

「ねえ、今日、精文館行かない?」

精文館とは本屋さんの名称。愛知県近隣の方なら精文館という本屋はなじみがあるだろう。妻は家の近くの精文館ではなく豊橋駅の精文館に行きたいという。確かに豊橋駅の精文館はそれなりに本が揃っている。東三河ならおそらく一番だろう。

「いいよ、行こう。俺も見たい本があるし」

そういってお互い出かける準備を始める。娘にいっしょに行くかどうか聞くと、行ってらっしゃいとそっけない返事。じゃあ二人で行こうかと、思いもかけずに妻とデートとなった。車を運転して途中のコンビニエンスストアでまたまたコーヒーを買って豊橋に向かう。久しぶりの精文館はいつもの賑わいを見せている。昔はとなりにCDショップがあったが今はそれがなくなって雑誌の売り場に変わっていた。妻は仕事で使う本を探しに2階へ、僕は哲学書を物色しに向かった。

「あ、日高先生の本あるかな」

今日の新聞に載っていたから、もしかしてもうないかもしれない。でも探すだけなら損はない。せっかく豊橋の精文館に来たんだからと、本を探す機械の前へ。僕の前にすでにいる若い男性は、なにやら声優の女性の本を探しているようだ。たくさんあるリストの本を何度もチェックしている。さすがに時間がかかっているのでちょっといらいらし始めた時に、男性はお目当ての声優の写真集の場所を見つけたらしく印刷された案内プリントをもってその場から立ち去った。僕の番。日高先生の名前を入力して候補を挙げる。あった! プリントして案内の場所へ。しかし本が見当たらない。

「やっぱり今日出てたから売れちゃったのかな・・・」

でも、なんとなく諦めきれないので、もしかして在庫とかあるかもという期待を胸に店員に尋ねてみる。そうするとプリントされた案内とは反対側の棚に日高先生の本があった。これは見つけられないなと苦笑して店員にお礼を言う。日高先生のエッセイを手に今度は哲学書のコーナーへ向かう。本を物色する楽しさに時間を忘れる。

「この本面白そうだな、あ、これも気になるな」

結局4冊ほど抱えてレジに向かう。そんな出会いで見つけた『世界を、こんなふうに見てごらん』という本は、今僕のパソコンの隣で横たわっている。ページ数は200ページ少々で440円。後半は日高先生の講演が掲載されている。非常に平易に書かれたエッセイであり、下手すれば数時間で読めてしまうこの本。時間が短ければ内容が薄いかというと決してそうではない。興味がある人はぜひ購入して読んでほしい。日高先生の生き物に向けるやさしいまなざしを感じ取れる。そしてそのまなざしはそっくりそのまま科学を志す人への厳しいまなざしとなる。最後にエッセイに書かれた一文を紹介して今回の「臨床のヒント」を終わりたいと思う。

『科学を志す人には、なぜということしかない。おおいに「なぜ」に取り組めばいい。自分の「なぜ」を大切にあたため続ければいいと思う。』(p22)

リハビリテーション専門家という臨床家は、この文章の意味をよく吟味する必要があると思う。

2013年4月18日木曜日

見直される理念

岡崎共立病院 井内勲

見直される理念
中日新聞サンデー版 世界と日本 大図鑑シリーズ 『学校と社会をつなぐ キャリア教育』 NO.1090,2013.4.14
 
日曜日の中日新聞には、別刷2ページ分のサンデー版が一緒に挟まっている。その1ページ目の見開きに「世界と日本 大図解シリーズ」があり、自分はこの紙面が毎週楽しみで、要チェックしている。時節の話題を図表や大きめの絵、時には漫画風にも書かれ、気になっていたニュースはもちろん、少し難しそうなテーマやあまり興味の無かったテーマでも、幼い頃によく広げた図鑑のように視覚的に飛び込んでくるので、新しい発見の一歩目となることも多い。また最後にそのテーマに関する知識人によるコラムがあり、その内容の説明、整理にもつながってこれも分かりやすくさせてくれる。

その中で4月14日の大図鑑シリーズ、『学校と社会をつなぐ キャリア教育』にて三村隆男氏(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)がキャリア教育について短評をされたいた。

・キャリア教育というと、真っ先に職場体験や進路相談を想起させますが、人は体験やコミュニケーションを通して自己理解(気づき)を深めます。この気づきが、キャリア教育の第一歩となり得ます。自分は何が得意で何が苦手だったのか、今の自分には何ができて何ができないのか、これから何をしたいかなどは、生き方を選択するには必要な思考なのです。
・(キャリア教育には)人生の選択にかかわる具体的な情報も重要です。どのような学び(学校)があるのか、どうのような働き方(職業)があるのかといった事は、今の自分とこれからの自分のギャップを知り、どのような取り組みが必要かなどのキャリアプランニングに取り組む基本的な情報となります。
・キャリア教育が一貫して目指したのは、主体的に生き方を選択する能力や態度を育てることでした。
・キャリアを生まれてから死ぬまでの長い道程を指すものとすれば、キャリア教育はそれぞれの段階でさまざま活動を効果的に展開し、創造的に生きていくための理念や方向性を指し示す教育といえるのです。

自分は「キャリア教育」のなかに若干の共通点を感じた。「キャリア教育」は「認知神経リハビリテーション」として、そして「キャリア」とはまさに「認知を生きる」そのものとして・・・いかがでしょうか?

さらにはもっと多くの教育や学びというテーマに秘められるものに、自分自身触れてみたいと思わされてた内容であった。

2013年4月1日月曜日

症例は・・・

首藤 康聡(岡崎南病院)

症例は30歳代の男性です。

数年前より両下肢の疲労感を強く訴えるようになりました。特に右側が酷く、下腿後面がいつも「カチカチになってる感じがする」と訴えていましたが、触診では筋緊張に左右差は認められませんでした。

症例は幼少の頃より、両膝関節の痛みを頻回に訴え、高校生の頃に『半月板変形』と診断された事がありました。そのような背景もあり症例はこの両下肢の疲労感は膝関節の影響だと考えていたのです。

さて、本日症例は歩行時の左右の下肢を比較してみると右立脚中期から後期にかけて右側の下腿後面と足底前方に“グッ”と踏ん張るように力が入っている事に気がつきました。そしてもう一つ。この際の足関節の背屈が左側に比べ少ない事に気がつきました。これはどうやら下腿後面の筋緊張が影響しているという事はわかったので、左側のイメージを右側に移してそのイメージ通りに運動を行おうとしたのですがなかなかうまく行きませんでした。そこで他に違うところはないだろうかともう一度左右を比較してみました。すると立脚中期の中殿筋の収縮が弱い事に気がつき、そのイメージを同じように左側から右側へ移し、運動を行ってみることにしました。すると、グッと力が入ることなく背屈が増大し、スッと歩行ができるようになったのです。さらに腰部の使い方にも左右差があることに気がついたのです。

もちろん、まだまだ仮説の段階ですし、細かい内容は省かせてもらいますが症例が両下肢の疲労の原因は膝だと思っていたのに実は違う可能性が出てきたのです。もちろん一番の問題点は膝だとは思いますが、疲労の問題が一時的な問題ではなく二時的な問題である可能性が出てきたことに症例は驚いています。

さて、ここまで読まれた皆さんはこう感じているかもしれませんね。そう、これのどこが『臨床のヒント』なんだと。ただの症例報告じゃないかとお怒りかもしれません。実はこの症例は僕自身なんです。僕自身の身体を省みることで次の臨床に活かせる内容だったので、これは『臨床のヒント』なんです。

いかがでしょうか?皆さんも自分の身体を参考にして、『臨床のヒント』を見つけてみてはいかがですか?以外に面白い発見があるかもしれませんよ。

2013年3月16日土曜日

禅、「あたま」の整理

佐藤 郁江(岡崎南病院)

禅、「あたま」の整理(知的生きかた文庫)  藤原東演 著

 宝泰寺住職で禅の修行道場を出てから、禅語が頭の整理をすることで大いに役立ったとのことで、いろいろな禅語と共に住職の体験も踏まえて書かれている。
 いろいろ数があるが「無言のつながりに気づく(以心伝心)」の中で師匠と弟子の関係を語っている。その中で弟子は試行錯誤し答えを見つけていくことが後々には自分で使えるものとなるということがあるとなっている。患者さんにとっても自分で使えるものになるためには、自分で気づいてもらうことが大切になってくるように思う。
 また整理のためと書かれているが、まえがきの中に

   悩むことは、自分のあり方を問われている大切な出会いである
   
   悩みをなくそうとする必要はない
   悩んでいる自分がありがたい

と書かれている。私の中で悩みをありがたいと思えるところまでの感情があるのかは、正直に言うとないのかもしれないが、成長のためのものになると思われる。患者さんにとっても、悩みがあるからこそ治療を受けることになるので、次に進めるのかもしれない。もちろん悩みを強調することはできませんが、問いと置き換えることでリハビリテーションとしてもつながってくるところがあると思う。

2013年3月2日土曜日

はたらく理学療法士の動機づけ

尾﨑正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)

はたらく理学療法士の動機づけ(PTジャーナル・第46巻第11号 2012年11月)

ジャーナルの特集の中で、動機づけに関して何人かのPTの方が述べている。
そして、若い理学療法士へのメッセージが込められている。

2012年6月の時点でPTの有資格者は100,560名で日本理学療法士協会会員数は77,844名。年齢構成は21~30歳が48.1%を占め、平均年齢は男性33.4歳、女性31.8歳と若い世代が多い。理学療法白書2010によると「理学療法士を一生続けたいと思いますか」の質問に「そう思う」と答えた会員が42%だったそうである。これを患者に、もし提示したとしたら患者はどう思うであろうか?58%のPTは「そう思う」とはっきり言えないという現実である。患者はそのような治療者に治療してほしいのか?自分自身が何らかの理由で治療を受ける側に立った時どう思うのか?と考えさせられた。

以前、ある病院の1年目のPTが担当患者に言ったそうである。「別になりたくてなったわけではない」と。担当患者は泣いて訴えたそうである。「そんな人に治療してほしくない、すぐに担当を変えてくれ」と。当然であろう。それを聞いて私は、同じセラピストとして愕然とした。色々な考えや社会情勢により職業の選択は変化していくが、医療は人を治療していく職業であること、患者のこれからの人生をある意味背負っていることを忘れているのではなかろうかと思わせる発言であった。

この論文の中には様々な言葉が挙がっている。
プロフェッショナルとしての10カ条
1)軸がぶれない
2)挫折や逆境から何かをつかむ
3)自分の仕事に対して誇りを持ち、それを汚さないように日々精進している
4)権威や、名誉に溺れない
5)能動的であり、自分の履歴を刻んでいる
6)他人に厳しく、自分にもっと厳しい
7)尊敬する人をもっている
8)自分のスタイルをもっている
9)自分の考えや意見が間違っていることに気がついた時に修正できる
10)自分を客観的に見つめられる
・エビデンスに基づき、あるいはガイドラインに沿って進めることにより、大きな誤りを犯すことはないだろう。基本的にエビデンスに沿って進めることで、よい結果が出てしかるべきである。しかし、気をつけなければいけないのは、「科学はいつも真実とは限らない」ことである。数多くの臨床家は、近年エビデンスでその治療概念は誤りと証明されたことでも、その治療技術で結果を出せた経験を持っていると思う(本当の答えは患者さんのなかにある:本当の答えを探す態度=臨床結果を重視する態度がむしろ大切である)
・「本に書いてあることは嘘と思え、実践して初めて真実がわかる」

この特集の中には諸先輩方からのアドバイスや臨床に対する考え方などが述べられているので一度読んでみて、今は心に響かないことでも何年か経った時になるほどと思えることがきっとあると思う。

2013年2月16日土曜日

大人のピタゴラスイッチ

荻野 敏(国府病院)

「大人のピタゴラスイッチ」(NHK Eテレ,平成25年1月2日・3日放送)

ピタゴラスイッチって番組を知ってますか?

NHKのEテレ(教育テレビ)で放送されている子供向けの番組です。そもそもピタゴラスイッチは子供たちにいろんな考え方を楽しく伝える番組です。子供向けと言っても大人も十分に楽しめる内容で僕も一時期ハマっていました。ピタゴラ装置って言う仕掛けが秀逸でDVDも何巻か持ってます(笑)。

さて、今回取り上げる「大人のピタゴラスイッチ」は平成25年1月2日と3日の深夜に2回放送されました。第1回は「ちょいむず」で第2回は「かなりむず」です。大人のピタゴラスイッチですからちょっと難しめで、大人の知的好奇心をそそるような内容でした。皆さんは見ましたか?僕はもちろん録画して保存していますよ。

それぞれの回で、知っているようで実はよくわからないし、説明できないような単語がテーマになっています。第1回「ちょいむず」のテーマは「アルゴリズム」。さて皆さん、アルゴリズムという言葉を説明できますか?ピタゴラスイッチの中でよく知られているものに「アルゴリズム体操」や「アルゴリズム行進」があります。また、コンピュータのプログラムなどで時折でてくる用語でもある、その「アルゴリズム」です。アルゴリズムとは広辞苑では「問題を解決する定型的な手法・技法」と記載されています。大人のピタゴラスイッチでは「ある問題を解くための計算手順や処理手順」と説明されていました。ちなみにアルゴリズムの語源はアラビアの数学者アル=フワリズミーの名に由来します。第2回「かなりむず」のテーマは「機構」。機械内部の構造やからくりを意味します。「機構」にはさまざまなものがあり、「歯車」や「カム」や「リンク」などを思い浮かべると分かりやすいです。ちなみに「かなりむず」では「認知科学」も取り上げています。

このような、大人の知的好奇心をちょっとくすぐる番組が大好きで、よく見ます。物事の裏側には僕らが知らない、見えないものがたくさんあるということを実感できるし、知った上で物事を見ると違う解釈ができたりして楽しい。リハビリテーションにおいて患者の運動機能障害を解釈して、訓練を構築するのも、事象の裏側に存在する見えないものと相対することと同義だと考えています。僕たちはまだまだ知らないことだらけです。でも知ることは楽しいことでもあります。凝り固まった大人の頭をくすぐり、知的好奇心を抱かせてくれる番組でした。続編は未定らしいですが、年に何回かでいいので是非レギュラー化してほしい番組です。
(^_^)

2013年2月2日土曜日

間違いの効用

井内 勲(岡崎共立病院)

間違いの効用 H.L.ローディガー/B.フィン 
別冊日経サイエンス184 成功と失敗の脳科学, 44-49. (2012):日経サイエンス社

我々は患者に認知課題を設定する。それは対象が自らの身体を受容表面として外部世界との相互作用を構築していく上で、欠如しているであろう情報を問題とする。その課題の難易度の設定はというと・・・結構、苦渋する。

この著者は学習の効果について様々な研究より、正答を得ようと推測し失敗することが学習に役立つと述べ、学習を始める前にテストを受ける学生はその内容を、事前にテストを受けない学生より深くかつ長く覚えていると言っている。
学習において、「間違えない学習」を重視し学習条件を整えるよりも、間違わざるをえないような条件下に置かれた場面にこそ、よく学び、また長く記憶に残す事ができるという。

その事前テストによる学習の促進は、『問題に答えようとして間違えるという経験』にまさに由来しており、「間違えない学習」を心がけるのではなく、教師は学生達に対して、教材による学習を始める前にその主題に関する問題に答えるように仕向けるべき(そうする事は、必然的に多くの間違いを犯すことになる)であると述べ、またこの正しい答えを思い出したりゼロから考えたりするように自分自身を仕向けれる戦略にて、記憶力は高まると言っている。

まず少し時間を設けて自力で答えを見つけるようにする。そして何かの学習中に自分自身に課したテストに正解できなくても、その過程は無駄であるどこころか有益であり、ただ漠然と学習を続けるよりも、はるかに有益であるとしめている。

先の課題設定、最近接領域の見極めの難渋さに対して、まずは患者自身に課題に向き合って知覚仮説を立て、意識的な経験として探索をおこなうように仕向ける戦略が大切だということを再認識した。またもし難易度が高すぎた課題設定をしてしまったとしても、そこで患者自身がしっかり取り組んで結果、間違えるという経験をしたのならば、学習においてただ漠然と繰り返し訓練を重ねているよりも有益であり、今後の学習の可能性を充分に秘めていると感じさせられた文章であった。

2013年1月13日日曜日

セラピストによる教示やフィードバックは学習に有効か?

林 節也(岡崎共立病院)

題名「セラピストによる教示やフィードバックは学習に有効か?」
谷 浩明 理学療法学21.69-73.2006

患者に学習という観点から臨床を展開していくなかで、セラピストの言語が非常に重要であることに気づく。自分が参加した日本認知運動療法研究会第3回マスターコースでもセラピストの言語の重要性についての講義があった。患者の記述(内部観察)をキャッチすることも重要であるが、そこに関わるセラピストの言語(教示やフィードバック)が患者の学習には重要な道具の一つだと思う。

今回、この文献に出会い、患者に対するセラピストの声掛けや教示、フィードバック等の考え方の足りなさを再認識し、臨床を振り返ることができたと思う。文献では「教示の与える時期や量によっては学習を阻害する」と述べられている。確かに与える情報量が多かったり難易度が設定されていなければ、患者にとっての最近接領域ではなく学習を阻害していくのだと思う。

また、「外在的フィードバックが多いと内在的フィードバックが減少し学習を阻害する」とも述べられている。ただ単にフィードバックを与えるのではなく、外部から人工的に与えられる外在的フィードバックと視覚、固有受容感覚などの内在的フィードバックをうまく使い分けなければいけない。

セラピストとして関わっていく中で、教示やフィードバックの与える影響を再確認し、プラス面だけでなくマイナス面として作用すること。安易な一言が学習の阻害因子となることを常に考えながら臨床に臨まなければいけないと思った文献でした。