2013年12月2日月曜日

痛感

岡崎共立病院 井内勲

前回の首藤先生に続いて体験談、その2という感じになってしまいますが、最近ランニング、筋トレを始めました。きっかけはともあれ、情けないことに数回目にしてランナー膝のような症状が出現。これをきっかけに日常生活において腸脛靭帯の有難さを体感できたのは良かったのですが、結構これが痛く、立ち上がりや歩行に痛みの影響が強く出ました。

また時期的にも慢性でないにもかかわらず、確実に自分の身体図式を疑うようなエピソードも多々ありました。例えば、少々慌てながらのスタッフルームでの移動中に、机とスタッフの間をうまく曲がれず机の角で腰を強打…その日、朝からの逃避歩行は周知されていたのでスタッフからは、「身体イメージまできてますよ。」と失笑されてしまう始末。

当然、症状が出て疼痛の強い時は、膝は過剰に負の刺激を伴いながら存在(膝の身体部位すら大きく感じるほど)していました。そしてそれは立つことすら億劫にするだけでなく、徐々に恐怖に似た嫌悪感も加わりいつの間にか立ち上がる時、痛みのチェックというより、むしろ探すように痛みを意識している自分がいることに気づきました。そうなると自ずと立ち上がり動作に手を使って代償してしまうのですが、すぐに代償行為は当たり前のように自然に立ち上がり動作の一部となっていました。またその立ち上がり行為は初動時から無意識に重心をほぼ反対側にシフトし、むしろ動く前から予測的に抑制しているようであることに気づきました。「これではいけない」と思い、上肢で代償するのだからせめて意図的に重心だけでもまっすぐにしないといけないと、患側坐骨に重心をシフトせた瞬間に「痛い!・・・かも。」と一瞬、疼痛にも似た刺激が、恐怖を助長しました。

このようなことから自分の痛みの情動的な側面は確実に予測や注意、記憶といった高次機能にも影響いている、と思った時、疼痛の急性期と慢性期はどこまで急性疼痛で、どこからは慢性疼痛と時期的な境界というよりも、こんなことの積み重ね、不快な経験の重積なんだろうなと感じました。

治療において疼痛を出さないようにすることは当然ながら、早い段階から疼痛の情動的側面や、認知的なプロセスを踏んだアプローチを丁寧に試みないといけない、と再確認させられました。
まさに身を削っての痛感ですね。

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