2012年12月15日土曜日

クリニカルリーズニング

進藤 隆治(国府病院)

「クリニカルリーズニング」から考えたこと
PTジャーナル第43巻第2号 特集:クリニカルリーズニング

「クリニカルリーズニング」という言葉を最近聴くが私自身はこの言葉を知らなかった。しかし、興味を持つきっかけになったのが、私も参加したいと思ってできなかったニューロセミナー臨床編において、森岡周先生の講義「神経科学を用いたクリニカルリーズニング」を聴いた先生方の多くが賞賛していたからだ。今回はPTジャーナル第43巻第2号で記載されているクリニカルリーズニングの特集を読み、その後、仮説検証について自分なりに考えたことを書きたいと思う。

クリニカルリーズニングは「臨床推論」といわれるもので、「対象者の訴えや症状から病態を推測し、仮説に基づき適切な検査法を選択して対象者に最も適した介入を決定していく一連の心理的過程を指す。この過程は、気づきとともに経験や知識に基づく理論的思考による鑑別と選択の連続で、仮説を検証する工程を繰り返している」(内山)とある。
また、学生指導にも思考過程が用いられており、「最終的には学生自身で自己フィードバック(メタ認知、批判的思考)し、自己学習ができるようになること」(有馬)とあった。

まず、自分が考えたことは仮説検証の作業の重要性である。
認知運動療法(ETC)では演繹法を用い、セラピストは「問題-仮説-検証」といった認識論的な視点から患者を捉えるが、クリニカルリーズニングでも仮説・検証といった思考過程は重要とされている。もちろん仮説検証の過程は専門的知識に裏付けされたものでなければならないが、ETCにおいても神経生理学的視点を持つことで裏付けされた情報をもとに治療が行われる。
今更ではあるが、神経科学・神経心理学といった知識を身につけ神経生理学的視点を自分なりに考察することが仮説検証を行っていく過程において重要であると実感した。

次に考えたことは仮説検証の作業における落とし穴についてである。
「仮説には帰無仮説と対立仮説とが存在する」(吉尾)とあるが、つまり証明されてほしくない仮説と説明されることが歓迎される仮説があるということである。これにより知見を集める(情報収集)際にバイアスがかかり偏った結果を導くことがあるということが指摘されている。このことからも仮説検証作業において相当な根拠のもと客観的立場で臨む必要があるといえる。
検証作業において、なぜ、良くなったか・良くならなかったか、もっと良くできなかったかどうか、他にアプローチの仕方はなかったかどうかなど、言い出せばきりはないぐらいが、あらゆる可能性を考慮しなければならない。これを行っていこうと思うと、時間との戦いもあるし、複数の患者に対して同時進行をしていくのにはかなり難しい(弱音を吐いているように思われてしまうが・・・)。だが、少しでも仮説検証を明確にしていくためにも、自分の思考過程をフィードバックし、批判的思考を付け加えて考えていくことが必要である。

今回はクリニカルリーズニングについて調べるとともに仮説検証について考えさせられた。仮説検証に対してどれだけ裏付けされた情報をもってこられるか、自分の思考過程に対して客観的な態度をとれるかといった要点を挙げた。治療において仮説検証を繰り返していく作業はより厳密に行っていかなければと改めて思った。

2012年12月2日日曜日

Tom & Jerry

首藤 康聡(岡崎南病院)

この作品を皆さんもきっと一度は、いや何度も見たことがあるんじゃないでしょうか?

この作品は体が大きく凶暴だが、おっちょこちょいでどこか憎めない部分のあるネコのトムと、体は小さいが頭脳明晰で、追い掛けてくるトムをことも無げにさらりとかわすネズミのジェリーのドタバタを、ナンセンスとユーモアたっぷりに描いた作品ですが、最近、うちの子供が何度もDVDを見ては笑い転げています。もちろん大人の僕が見ても面白くいつも笑ってしまいます。

さて、このアニメの特徴は圧倒的に言葉が少ないという点ではないでしょうか?軽快なバックミュージックや効果音で盛り上げてはいますが、その大半が無言で表現されています。ところが日本語の吹き替え版になるとわかりやすくするためなのか、原作で2匹が話をしていないような場面でも日本語で2匹が話をしています。

さて、皆さんはどちらが面白いと思うでしょうか?実はこれを見ていた妻と僕は同じ意見でした。それは圧倒的に原作の方が面白いという意見でした。普通考えれば日本語であるためストーリーもわかりやすく、理解しやすいので面白いと感じると思いませんか?でも答えは違いました。それは一体なぜなんでしょうか?

もちろんこれには色々な理由があると思います。そのうちの一つが「わかりやすさ」にあると思います。原作では言葉が少ないため、コミカルな2匹の動きやそれを脚色するバックミュージックが絶妙なバランスで見事にマッチングしているのです。ここに日本語が必要以上に追加されることで、そのバランスを崩してしまい表現力が損なわれてしまったんではないでしょうか?

つまり情報が多すぎることでそのバランスを失ってしまったというわけです。最近はインターネットが当たり前の世の中で、情報に困ることはありません。しかし、情報に満たされてしまうと探索する事を忘れてしまいます。だって待っているだけで情報は寄せられますからね。情報は多い方が良い。そう思う事はあります。しかし、多すぎても良いとは限りません。

認知神経リハビリテーションは患者さんと相互作用しながら訓練が展開していきます。しかし、訓練を展開して行く中でついつい情報が多くなってしまうことはありませんか?そうすれば患者さんは能動的探索は行わなくなるかもしれません。

その他にも色々と考えるヒントを探すにはピッタリの物語だと思います。ただ、もう一つオススメする理由があります。いかがでしょう?忙しい日々の中で思いっきり笑う時間を作って見ませんか?きっと素敵な時間が過ごせるはずですよ。

2012年11月16日金曜日

人は見た目が9割

佐藤 郁江(岡崎南病院)

竹内一郎 新潮新書 2005

言葉だけでは語れないものが存在します。今までいろいろな所で話を聞いています。この本も「話す言葉の内容は7%で残りの93%は顔の表情や声の質である。実際には、みなし波や仕草も大きく影響するだろう」と書かれています。言葉以外の伝達であるノンバーバル・コミュニケーションの重要性を語っています。

この本の中で私が注目したのは、「日本人は無口なおしゃべり」の項目で日本人の特徴を8つ述べています。

・「語らぬ」文化、農民の文化で仕事中に喋っている必要がないことからきているもの。
・「わからせぬ」文化、わからせようとする気持ちが少ないとされている。
・「いたわる」文化、こころや体に傷を負っている場合、その話題には最初から触れないでおこうという、暗黙の了解ができる。
・「ひかえる」文化、基本的には強い自己主張をしない。長所を語る場合も「自慢のように聞こえるかもしれませんが」と予防線を張る。
・「修める」文化、毎日反復すること。武道の修行の考え方。
・「ささやかな」文化、ささやかなものを愛している。短歌や俳句などの極端に短い短詩形文学。
・「流れる」文化、諸行無常。物事は常に変化する。そのために自己主張をする必要性を減衰させる。
・「まかせる」文化、仏教のことばでいえば、「南無」につながる。「おまかせします」

ここに書かれていることだけだと少しさみしく感じる部分もあるのだが、この中にもそれぞれ、察するということが含まれてくるところが多いです。

また患者さんにおいても多くは言葉で語らない中にも何か表現をしていることがあったりします。直接言えないことも多いと思われます。しかし「いたわる」部分で相手のことを考えてもいます。直截な指摘ではなく変化してくることこれは自己の中での変化をしてくることで、察することにつながっている部分もあるかもしれないと感じました。

日本人の特徴として書かれていますが、農耕文化の中で出てきたものであり、少しずつではありますが、変化してきている部分もあるとは考えられます。

2012年11月1日木曜日

天才と発達障害

尾崎正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)

天才と発達障害
岡南 著(講談社)

視覚優位のアントニオ・ガウディと聴覚優位のルイス・キャロル。かれらの認知の偏りが偉大なる「サクラダ・ファミリア聖堂」や「不思議な国のアリス」を生み出した。発達障害の新たな可能性を探る衝撃の書。発達障害研究の権威、杉山登志郎氏大絶賛「10年に1冊の画期的な人智科学の登場である」という本の帯に誘われ手に取った書籍です。

著者は視覚からの情報と、聴覚からの情報では同じ一つの事象であっても印象が異なり視覚が優れている人たちは、言語を覚える以前に、視覚で直接ものを見て考えることができ、自身の頭の中の映像を使って思考する人たちは、ものの名前を覚えることなく、脳裏に映像を描いて考えており、その反対に多くの皆さんは、言葉を聴覚で聴き覚え、理解し、知識として積み重ね、思考している。前者を「視覚優位」後者を「聴覚優位」という表現をしています。「視覚優位」の能力は一般に視覚記憶を生かし、土木・建築・デザイン・服飾・映像・生物学・物理学・パイロット・外科医・スポーツなどの世界に必要で思考がみな観察や空間をよりどころとしているもので、頭の中にある自前の映像で、動きやかかわり方を思考できるということは、既存の方法に頼ることができない仕事をする場合には、極めて便利なものです。視覚優位の中でも「映像思考」には大きく分けて二つの機能があり、一つは映像で記憶しそれをもとに考えること。もう一つは、映像でコミュニケーションをすることであり、反対に「聴覚優位」の人は、空間認知が苦手ですが、路襲性を必要とする学習や語学などは、聴覚からの記憶の良さが手伝い、たいへん優れています。聴覚優位な能力は、語学関係、音楽関係、俳優、小説家などの世界に必要なものだと述べています。

第二章ではアントニオ・ガウディ「四次元の世界」、第三章ではルイス・キャロルが生きた「不思議の世界」を述べています。詳細は興味のある方は読んで頂くとして、相貌失認の人の見え方、キャロルの相貌失認について、アスペルガー症候群、キャロルの吃音障害など様々な障害の中で素晴らしい作品が生まれていることがわかります。

ガウディは言っています。「私が出来の悪い学生だったのではなく、悪かったのは私に合った教授がいなかったということだ。その証拠に、型通り学校を出た建築家たちがなしたことと私のなしたこととを比較すれば、私の方に軍配が上がるだろう。」また、芸術については「芸術に師はない。唯一の師は自分自身である。あるのは芸術を学ぶ方法である。それ故、養成機関は、作品を直接見せるか、あるいは、(雑誌などの)図版によって、範例とその知識の便宜を計るのだ。・・・ただし、学校も美術サークルも雑誌にしても、芸術を学ぶための補助にすぎない。」あくまでも、ガウディは自分の目で学ぶことを求めています。

著者は映像思考であり、本を長い時間集中して読み続けることが難しく言語のままの蓄積も苦手だそうです。読んだものを一旦映像に交換し理解をしたところで、今度はノートに手書きをし、自分の手でかかないとその後に言語表現は難しく、例えば読んだ本の内容を、ノートパソコンに打ち込んだ場合、自身の視覚でモニターを見ても、後で文章として使えるような記憶にならないそうです。書く作業は、筋肉の動きが記憶の助けになり、そのように手間をかけて理解をしても、そのうち言語は消え、映像での理解が出来なくなってしまうそうです。映像で長期保存をしている内容を、あらためて言語で表現しようとすると、今度は言語を一から組み立てていくような大変さにみまわれ、どうしても時間がかかるそうです。

この書籍の「刊行に向けて」の中で国立成育医療研究センターの宮尾益知さんは発達障害の子供たちにはどのような未来があるのだろうか、と考えを巡らせ、発達障害として語られている著明なモーツアルト、エジソン、チャーチル、アインシュタイン、グレングールド、チャールズ・ダーウィンなど、才能ある人たちの作品や当時のエピソードから診断できれば、発達障害の子供たちへの希望の星になるのではないかという思いを抱き、認知の面から人の特性をとらえていくことは、発達障害と言われる人々の個人の能力をいかに伸ばし、どう開花させればよいのか、「障害から才能へ」と導く指針となるでしょう。と述べています。

患者の身体と精神を理解し仮説を立て検証していく中で、気づいていないことや理解していないことがあると、病態に対し的確な治療とかけ離れてしまった治療をしてしまう危険性があることをこの書籍を通じ理解することができました。ガウディの「私に合った教授がいなかったというだけだ」という言葉をリハビリテーションの世界に置き換えると機能回復ができなかったのは「私に合ったセラピストがいなかったからだ」と言われているような気もちになり、改めて治療を行う上で患者を理解することの重要性を感じさせて頂きました。

2012年10月17日水曜日

パスカル パンセ

荻野 敏(国府病院)

NHKテレビテキスト 100分de名著
パスカル パンセ 著:鹿島茂

パスカルって知ってますか?

知らないと言う人でも、“ヘクトパスカル”と聞くと「あああ!」と気づくかもしれませんね。じゃあ「人間は考える葦である」って言葉は聞いたことありませんか?「クレオパトラの鼻」の話は聞いたことありませんか?

実はパスカルという哲学者が書いたパンセという本に書かれているんですよ、葦もクレオパトラも。パスカルは1623年に生まれたフランスの数学者・物理学者・文学者・哲学者です。日本ではまだ江戸時代が始まったばかりの頃に生まれているんですね。このパンセは「死後、書類の中から発見された、宗教およびその他の若干の主題に関するパスカル氏のパンセ(思索)」と言うのが正式な名称だそうで、これからもわかるとおり、パスカルが生前に書き巡らせた草稿を遺族や編者が編纂した随筆集です。なんども改訂を繰り返して現在の形になったそうですが、後半はキリスト教護教論の色彩が強く、日本人にはなじみが薄く、かつ理解が難しいのだそうです。もちろん僕もパンセを読んでいません。

たまたまテレビをつけていてこの番組に出合いました。この名著シリーズは他にも「ドラッガー」「ニーチェ」なども取り上げていて、興味がある人はNHKのサイトからバックナンバーを取り寄せるといいかもしれませんね。

いずれにしても、ちょろっと観たパンセにかなり惹かれてしまいました。たくさんの印象的な言葉が残っていますが、代表的な文章を紹介します。

人間というものは、どう見ても、考えるために創られている。考えることが人間の尊厳なのだ。人間の価値のすべて、その義務のすべては、正しく考えることにある。ところで、考えることの順序は、自分自身から始めることだ。いいかえると、自分自身を創った創造主とその目的から考え始めるのが正しい順序なのである(断章146)。

ちょっとキリスト教チックですけど、パスカルは考えることが人間の尊厳であり、価値や義務のすべてであると述べていますが、考えることと言うことが人間を不幸にするとも言っています。どういうことかというと考え始めると必然的に悲惨なこと、すなわち「死すべき運命」のことを考えるから不幸になるとパスカルは言います。考えることのプラスの価値とマイナスの価値を肯定しているのですからこれは矛盾です。しかしパスカルは、人間の悲惨とともに人間の尊厳がセットとして結びついていることが重要であると説きます。考えなければ人間ではない、考えることは悲惨なことと結びつくが、考え続けなければ人間の尊厳を失うのです。この部分は比喩を用いながら説明していますので、本当はもっと深く解説されています。しかし、考え続けることの意味を考えさせられます。

私たちの日々の臨床で、私たちはどれだけ考えているのでしょうか?一日を振り返り、「あの患者の症状は?」「あの患者の記述は?」「この訓練の目的は?」と考え続けているのでしょうか?これはかなり焦りますね。考えてないならパスカルに言わせれば人間ではないんだから。職業であるセラピストとして生きることを望むのであるならば患者について考え続けなければいけません。

本当にセラピストという職業に自分はあっているのだろうか?こんな疑問を感じたことはありませんか?少なくともセラピストになって一年目、僕はそう感じました。でもこのことについてもパスカルはパンセの中で記しています。

一生のうちでいちばん大事なのは、どんな職業を選ぶかということ、これに尽きる。ところが、それは偶然によって左右される。習慣が、石工を、兵士を、屋根葺き職人をつくるのだ(断章97)。

人間は、屋根葺き職人だろうとなんだろうと、生まれつき、あらゆる職業に向いている。向いていないのは部屋の中にじっとしていることだけだ(断章138)。

自分がその職業になるのではなく、その職業が自分を変える。私たちはセラピストになるのではなく、セラピストという職業が私たちを変えたのではないだろうか。そう思うと、自分はセラピストに向いていないなんて考えて不幸になる必要はないですよね。目の前の患者をどう治すかを考えるべきなんです、自分自身とその目的から考えを始めると言うことは自分がセラピストであるということとその目的から考えると言うことです。セラピストは患者を治すことが目的の仕事なんです。

職業に向いてる向いていないなんてことを考える前にすることがありますよね。少なくとも、今、目の前にいる患者にとってあなたはかけがえのないセラピストなんだから。

2012年10月2日火曜日

脳が生み出す心的イメージの謎

井内 勲(岡崎共立病院)

脳が生み出す心的イメージの謎
別冊 日経サイエンス 脳から見た心の世界part2 
発行:日経サイエンス社,2006.12.13

我々が日々の訓練で運動学習や、特異的病理のコントロールなどにおいて運動イメージを想起してもらう場面は多い。また運動イメージを使用することは、脳の活動においても実際の運動実行と運動イメージ中の活動領域にかなり共通しているという点や、運動のシステムとして、運動のプランニング、プログラムなどのより高次なレベルと関係するという点で、リハビリテーションの可能性を考慮する上で重要な意味があると言える。

しかし、臨床において患者に運動イメージを想起させるという事は非常に難渋する事も多く、本当に治療に効果的なイメージの想起が促せているのかと苦悩する。

今回『臨床のヒント』として紹介する文献は、心的イメージの生成において脳のなかで、対象の属性の関連づけによって構成されていると論ずるグループ(命題派)と実際の図形として表現されるというグループ(イメージ派)がそれぞれの論じており、未だしっかりと答えがない事や、イメージ(視覚)を思い浮かべる過程では、一次視覚野が活性化するという研究紹介など既に周知の事も多い。また、「心的イメージ」が「視覚イメージ」の内容であるため、直接的なヒントになり得るかどうかは読み手の現在の選択的注意の状況にゆだねる事がいつもより多いかもしれない。実際、自分もさらに悶々としてしまう部分もあった。しかしその中で最後の視覚表象と記憶の関連についてのエピソードが2例ほどあった。そこから日々の治療風景で、患者に「イメージしてみて下さい、出来ますか」とただ繰り返し問うだけではない、もう少し患者の回復に迫るべき運動イメージを促す為のヒントを自分は感じた。

先にも述べたようにこの文献だけでは不十分なテーマである、しかしイメージを治療のツールとする上でいかにそれを理解し、使用できるかという事はこれからも追求しなければいけない課題でもある。そのきっかけとして紹介したい

2012年9月15日土曜日

あなたの患者になりたい

林 節也(岡崎共立病院)

題名「あなたの患者になりたい‐患者の視点で語る医療コミュニケーション‐」
佐伯晴子.医学書院.2003.

僕たちの仕事は、病気やけがなどで社会生活に支障を来たしてしまった患者に対して、様々な視点で関わる必要がある仕事だと思っています。そのためには、身体機能面や精神機能面、生活背景などといった患者を知ることで治療が円滑に進んでいくのだと思います。

患者とのコミュニケーションを図ることは僕たちの仕事ではとても大切なことです。それは、セラピスト皆が分かっている事であると思うし、意識していることだと思います。また、コミュニケーションを図る事で、患者との信頼関係を構築する事となり、心の許せる存在となり、それが内声を確認する事が出来るようにもなってくると思います。

文中では、医療従事者と患者との関係性についてどうあるべきかが書かれています。是非一読して頂ければ良いかと思いますが、私たち医療従事者にとっては病院が職場であるためごく当たり前の環境となっているが、患者にとっては特別な世界である事。不安だらけの生活において通じない専門用語。問診ではなかなか病状を説明出来ない事への不安など、患者の心の想いが多々書かれています。また、それを解決するために必要である事の一つにとして、医療従事者の表情や清潔さ、態度といったコミュニケーションを図り、信頼関係を築きあげることだと述べられています。

僕たちは患者さんを内部観察の視点からも関わっていきます。しかし、接触情報や身体の位置関係を「患者がどう認識しているのか・注意しているのか」といった評価の部分を観察していく前提には、患者との信頼関が構築されていなければ、患者も正直には意識経験を語る事が出来ず、治療に影響を与えてしまうのではないでしょうか?日常の何気ない振る舞いから患者との信頼関係を構築していかなければいけない。今一度患者との関係を改めようと思うきっかけとなった一冊です。

2012年9月1日土曜日

所さんの目がテン

進藤 隆治(国府病院)

所さんの目がテン(2012年8月12日:中京テレビにて放送)
テーマ:誰でも絵が上手に(秘)技

日曜日の朝といえば一昔から愛され続けている番組がある。それは「所さんの目がテン」だと言う人は私はきっと多いと思う。(関東の方では土曜日放送らしい)

「所さんの目がテン」は日本テレビ系列にて1989年から放送されている長寿番組で、科学・自由研究を中心とした生活情報番組である。少しためになる(?)情報を面白可笑しく伝えてくれるこの番組は見はじめると忙しくてもついつい最後まで見てしまう。

さて、今回のテーマは「誰でも絵が上手に(秘)技」ということであったが、番組では絵心がある人・ない人は何が違うのかを脳画像を使って説明していた。それによると絵心がある人は明らかに右脳の賦活が認められ、絵心がない人は左脳だけが賦活しているとのことだった。専門家の話しでは「論理的な思考をする左脳が、感覚的な思考をする右脳より働いてしまう」とのこと。左脳はイメージをシンボル化してしまうので、抽象的になり絵が幼稚になるそうだ。絵心がある美大生は右脳がかなり賦活しており、形やサイズといった特徴を具体的に捉えることができていた。

これをみて、左右間の脳の賦活のバランスは重要だと改めて思った。健常者でもこれだけ左右の賦活に偏りがみられるなら、片側に病巣があるCVA患者さんはさらに偏りが著明になることは想像できる。今日では左右半球は脳梁を通じて連絡を取り合って協調・監視を行っていることがわかっており、また半球間抑制といった左右半球のメカニズムも明らかにされている。脳をシステムと捉えるならば左右半球の役割はしっかりと押さえておきたいとこである。

話しは番組に戻り、風景画を上手く描くのに簡単な方法を紹介していた。それは逆さまから見て描くというものだった。逆さにすることにより右脳スイッチが入るとのこと。ただ逆さまに見て描いただけなのに明らかに上手い絵が描けていた。

これについてはもちろんリハビリでは単純に当てはまらないが、神経生理学的な視点や脳の機能を知ることは、より患者さんに適確な課題や言語介助を行っていく上で強い武器になると思う。

最後にそんなことで絵が上手くかけるのかと思った人はぜひ一度、試しに逆立ちをしてみてほしい。右脳スイッチを入り何かしら新しい自分がみつかるかもしれない(笑)

2012年8月15日水曜日

NHK スペシャル 『MIRACLE BODY』

首藤 康聡(岡崎南病院)

NHK スペシャル 『MIRACLE BODY』
http://www.nhk.or.jp/special/miraclebody/

17日間にも及ぶ暑い熱戦が繰り広げられた、オリンピックも終わりましたね。眠れない日々が続いた方もいらっしゃるのではないでしょうか?日本代表は史上最多の38 個のメダルを獲得しました。今回紹介するのはその中でも、個人総合金メダルを含む合計3個のメダルを獲得した体操日本代表の「内村航平」選手の強さに迫った番組です。

番組の中では視覚や空中感覚と言われる能力に内村選手が優れていることが様々な実験で解き明かされて行きました。その中でも僕が気になったのは「運動イメージ」です。全国大会に出場する選手と内村選手の運動イメージ中の脳活動をfMRIで比較したところ、ある選手は視覚野が、内村選手は高次運動野の血流量の増加を認めました。これは前者が「三人称イメージ」で後者は「一人称イメージ」であると番組では解説されていました。また、「頭の中に小さな自分がいて、体をどう動かせばいいのか教えてくれる」と内村選手はインタビューに答えています。

この一人称イメージに内村選手が目覚めたのは14歳の頃だそうです。ビデオである選手の「トカレフ」という技を何度も何度も繰り返し見ていると、ふと自分の体がまるでトカレフを決めているかのような感覚に襲われたそうです。実際にそのあと、トカレフを練習してみるとすぐにできたそうです。当時、一流の選手がこぞって練習し極めようとしたトカレフをわずか14歳の少年が決めてしまったのです。

いかがでしょうか?内村選手の強さが少しはお分かりいただけたでしょうか?やはり、一人称イメージは運動学習に非常に有効な手段であるように思えます。そのイメージを僕らは臨床で考えて訓練に取り入れています。だけど、どうでしょうか?その効果をすぐに求めていませんか?確かに一人称イメージは有効です。しかし、内村選手でさえ一人称イメージができるようになるまでに、相当な努力を要しています。運動イメージができるできないではなく、いかに運動イメージができるように訓練を展開して行くのかそれを考えるとともに、焦らずゆっくりと訓練を展開して見ませんか?

この番組は今にところ再放送は予定されていないようですが、もしあるようなら一度見てみて下さい。他にも臨床を考えるヒントが沢山ありますから。

2012年8月1日水曜日

脳は直感している―直感を鍛える7つの方法

佐藤 郁江(岡崎南病院)

脳は直感している―直感を鍛える7つの方法
佐々木省吾 祥伝社 2007

題目が気になって古本屋で手に取った本です。直感自体は存在しているものの当たるか当たらないかは人それぞれであると感じています。今まで直感はなんだか気になっていた部分で自分の中でも以前の臨床のヒントの中でも関係することを書いているように思います。気になったところとして最後の章(直感を鍛える7つの方法)で書かれている1つ目の「自分の五感を使って「知覚」することを、もっと心がける」です。これは直感するために「現在の状況」を把握する必要があるからです。直感は初めの章に書かれているのですが知識や経験を加味した、総合的な判断と書かれておりどのような経験をしてきたかによって左右されるものであるといえます。患者さんにも何を経験してもらいどのようなことを知ってもらうかは考えていく必要があると思われます。

本書の中に一つ緊張感と活動パフォーマンスの関係につて書かれていた部分があります。これはヤーキーズらが緊張感と活動パフォーマンスの間に逆U字の関係があることです。そしてやさしい問題ほど高い緊張感(覚醒水準)が求められ、難しい問題であるほうがある程度のリラックスでの取り組む方が良いと研究しているそうです。この研究があるので私たちは患者さんにとっては少し難しいと感じる課題を与えていることが多いと思います。緊張度を少し考えながら行っていく必要もあると感じます。

2012年7月15日日曜日

ぼくの脳を返して

尾﨑 正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)

ぼくの脳を返して     
―ロボトミー手術に翻弄されたある少年の物語―
ハワード・ダリー+チャールズ・フレミング   WAVE出版  

私がロボトミー手術のことを知ったのは学生時代、精神障害の授業で観た「カッコーの巣の上で」という映画で、暴れていた人たちが手術を終えると急におとなしくなっていく姿が映し出されていたことを思い出しました。ロボトミー手術とは前頂葉切除手術のことでlobotomyと綴られloboは前頂葉や側頭葉などの「葉」を表し、tomyは「切除」を表します。

「ぼくの脳を返して・ロボトミー手術」という言葉が妙に引っ掛かり手に取っていました。

ポルトガルの医師エガス・モニス(1874-1955)がロボトミー手術の治療的価値を発見して1949年のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。当時は、統合失調症や躁鬱病のような精神病に有効な治療法がなくロボトミー手術が行われました。ロボトミー手術をアメリカに紹介したウォルター・フリーマン(著者を実際に手術した医師)とジェイムス・ワルツがモニスのロボトミー手術をアメリカに紹介し、全米で年間600件程が実施されるようになり、手術例はノーベル賞受賞までにアメリカだけで1万件に達していたそうです。日本でも1942年の中田瑞穂始め、広瀬貞雄が1947年~1972年の25年間に523件のロボトミー手術をした記録がありますが、総数は分からず3~12万件と言われています。

著者のハワード・ダリーは少年時代、少々いたずら好きなごく普通の少年であり、幼くして母を亡くしたのち、父親の再婚相手に疎まれ、両親から虐待され、そして、統合失調症という間違った病名を与えられ1960年、わずか12歳にしてロボトミー手術を受けさせられました。その後、家族から捨てられ精神病院や拘置所を転々と過ごし、50歳になってようやく心から愛せる女性と巡り合ったことをきっかけとして、すさんだ過去を省みるようになり、そのような人生を送るにいたった原因を突き止めるための「旅」に出ました。そして、その「旅」の途中でロボトミー手術の第一人者として知られるフリーマン博士を題材にしたラジオ番組に出演する機会を得て、ハワード自らの診察・手術記録を手術中の写真まで含めてすべて閲覧することになりました。

エガス・モニスが発見したロボトミー手術が、人類に多大なる貢献をした者に与えられるノーベル賞を受賞した事実、そして、現在ノーベル賞の取り消しの運動さえ起こっている現実があります。当時としては、最高の治療とされていたのでしょうが、次第に真実が明らかになり危険であると判明され、薬物での治療法が開発されることによって、今現在は行われていません。

この本を読んでいてリハビリテーションの世界でも起こりうることではなかろうかとふと思ってしまいました。現在、日本のリハビリテーション臨床現場で当たり前のように行われている訓練は、未来には間違いであったということにならないであろうか?なるかもしれないし、ならないかもしれない。それは未来にしか分からないでしょう。現在行われているリハビリテーション自体が1950年代からほとんど変わっていない事実さえ知らないセラピストが大勢います。これだけ社会は変化しているのに「なぜリハビリテーションは変わっていないのか?」ということを。そして、これではいけないと日々研鑚し、取り組む人々も確かにいます。未来のリハビリテーションがどうなっているのかということは分かりませんが、1950年代にリハビリテーション訓練を構築した方々は当時、約60年も変わらない訓練を予想したのでしょうか?現実的には不可能ですが、もし、今、現代に彼らが来ることが出来たとして、リハビリテーションの臨床現場を見たとしたら、どのように感じるのだろうか?と思ってしまいました。

私達が日々「問題―仮説―検証」を常に繰り返し、「理論と実践、本と訓練室の間を行ったりきたりしながら、常に新しい問題点に戻って循環する。」このことを忘れず臨床展開し続けていくことで、ロボトミー手術の犯した様な事実は防ぐことができるのではないかと私は思います。そして、私達が行わなければいけない「患者の真の期待に答えられる治療」を実践できるのではないかと思います。

「ぼくの脳を返して」の著者により医療者の犯してしまった取り返しのつかない史実と、その現実の中で生きていかなければいけない患者の事実を知ることで、私達が犯してはいけないことに改めて気づかせて頂きました。

2012年7月2日月曜日

もうひとつの世界でもっとも美しい10の科学実験

荻野 敏(国府病院)

もうひとつの世界でもっとも美しい10の科学実験
ジョージ・ジョンソン著 吉田三知世訳
日経BP社 2009

自宅の近くにある小さな図書館にも意外と掘り出し物の本がおいてある。本棚を眺めて気になる本を手に取り、目次をぱらぱらとめくって内容が面白そうだと、小躍りしたくなる。だから、図書館や本屋は大好きだ。最近は科学系の本がお気に入りでよく読んでいる。この本も、近くの小さな図書館の一番奥の棚の一番高い場所に置かれてあった。普段なら絶対に目にはいることのない位置に置かれた本だが、科学系で面白そうな本を探しているときに出会えた。

タイトルからすでに好奇心をくすぐる。目次の前には晩年のアルベルト・アインシュタインの文章が書かれている。子供の頃に方位磁石を父親から見せてもらって、針がずっと北を指してることに対して強烈な印象を受けたそうだ。そしてこう綴っている。「それは、物事の背後には、奥深く隠された何かがあるに違いないという印象である」

「もうひとつの」とタイトルに付けられているので、察しがつくと思うが、「世界でもっとも美しい10の科学実験」という本も存在する。そちらの本は主に物理学の科学実験を紹介している。地球の円周を紀元前に測ろうとした実験やガリレオガリレイの斜塔の実験、アルファ実験と呼ばれる加速度の実験などが美しい実験として紹介されている。こちらも興味深いが、今回紹介する本には物理学だけでなく生物学・化学・物理学の科学全般から選ばれた10の実験が紹介されている。

第9章にはイワン・パブロフの条件反射の実験が詳細に記載されている。この章のサブタイトルは「測定不可能なものを測定する」だ。パブロフは犬を実験で使う際、「短期間で行う暴力的な実験」は極力避けたそうだ。パブロフは長期的なアプローチを好んだ。犬の胃や唾液腺などを手術して、動物が手術から完全に回復してはじめて、数ヶ月から数年間におよぶ観察に取りかかったそうだ。短期的で暴力的な実験は、パブロフから言わせると時計が動く仕組みを理解しようとして木槌で時計を壊してしまうようなものだった。著者はこう述べる。「パブロフが犬を使って行った研究は、その明快な論理とエレガントな体系によって、最も遠い星よりもなお遠いと思われていた世界、脳の内側への道を開いたのであった」と。

1904年、パブロフは消化生理の研究でノーベル賞を受賞する。1935年に「ある犬を記念して」という装飾噴水が、パブロフの在籍していた実験医学研究所の敷地内に作られたそうだ。その側面には研究所内の場景と「有史以前から人間への奉仕者でありかつその友であった犬が、自らを科学の生贄に捧げるのを受け入れよ。しかし、われわれに道徳的品格があるのなら、それは常に不必要な痛みなしに行われねばならない」というパブロフの言葉が刻まれているという。

他にも興味深い実験が紹介されている。かなり子細に。先人たちのアイデアには驚かされるし、実験とは観察なんだということを改めて思わされる。科学とはなんだろうか、我々の仕事はいったいなんだろうかと疑問に思ったときに紐解くと良い本である。一読を勧める。

2012年6月17日日曜日

心の発達と教育の進化的基盤

井内 勲(岡崎共立病院)

「心の発達と教育の進化的基盤」明和政子「科学」Vol.78, No.6, 626-630:岩波書店  

今回は「心の発達と教育の進化的基盤」を読んで臨床のヒントというよりも自分の臨床を振り返ってみた。

本稿は、チンパンジーの母子間でみられるコミュニケーションを通じて、人間の心の発達について述べられている。その中の「心の発達とコミュニケーション」という段落より、チンパンジーの母子間コミュニケーションと人間のそれとの特徴の大きな違いが比較紹介されており、またチンパンジーの模倣能力の特性も述べられていた。

要約すると、人間の乳児は生後4ヵ月を過ぎるころ、物に手を伸ばし始め、おとなとの間で物を介した遊びを開始する。そして生後9ヵ月を迎えるころ、人間のコミュニケーションは以下のように劇的に変化する。

・乳児は他者が注意を払っている物を目で追い始める(視線追従)
・見知らぬ物に出くわしたときに、母親と物とを交互にみくらべる(社会的参照)
・自分の興味ある物や出来事を指差すことで、他者の関心を引き寄せる(共同注意)

いわゆる二項的な関わり(「他者-乳児」あるいは「物-乳児」)に加え、他者の視点を通した物との関わり、三項関係(「他者-物-乳児」)に基づくコミュニケーションの出現である。このような共同注意や視線追従は他者の心的状態(意図)を理解する能力の指標とみなされ、この能力は、人間の高度な社会的知性の発達基盤であるといわれる。

しかしチンパンジーの母子間では共同注意・社会的参照といった行為は日常場面ではほとんど観察されない。母親がめずらしいものを操作しているところへ乳児が近づき、自分でもそれに触れようとする場面はよくみられるが、人間の乳児のように、物を母親の方へわざわざ持っていって見せたり、母親に注意を向けさせようとすることは、チンパンジーではまったく観察されない。
チンパンジーの乳児は、他者と注意や行動を共有する機会、他者と同じ行為を自分で追体験する機会が人間に比べて圧倒的に乏しく、それは、チンパンジーの模倣能力が人間と比べてかなり制約されている事実にも裏づけられる。チンパンジーが模倣する際の手がかりは、操作された物がどの方向に動いたのか、どのような属性をもつのかなどの、物に関する情報に限られている。よってチンパンジーにっとっては、他者の身体の動きを自分のそれに重ね合わせて模倣することが難しい。

と述べられていた。さて、自らの訓練は道具の特性を知覚してもらう際、セラピストと道具から得られる様々な情報と患者の三項関係は成立しているのであろうか?お互いが課題の要素や情報性を共有できているつもりになっていないか?そのためにも「人間の高度な社会的知性の発達基盤」としてのコミュニケーションを忘れてはいけない事を再考した。

2012年6月2日土曜日

情動による記憶強化のしくみ

林 節也(岡崎共立病院)

題名「情動による記憶強化のしくみ」
著者:枝川義邦.お茶の水女子大学生活科学部生活工学研究会.2006

認知神経リハビリテーションを施行していて、日々思うことの一つに「訓練内容をなかなか記憶されず学習に至らない」ことがあります。先日行った内容は覚えているが、どこに注意を向けて座位保持を保つように指示されたか?座位保持の際に、どこの感覚を意識するのか?といった具体的な内容までは覚えておらず、結局本人の行いやすい代償動作が出現してしまう症例をよく経験します。

そのため、学習されやすい記憶とはどういうものかと思いこの文献を読みました。

私たち自身、日々の生活を送っている中、どうしても忘れられない経験があります。その時の光景をあたかもその場に居合わせているかのように思いだせる事もあるが、辛抱強く机に座って覚えたはずの教科書の内容をすっかり忘れてしまうことがあります。このように忘れられない記憶の中に情動に働きかけた記憶があります。

情動は大脳辺縁系にある扁桃体が中枢とされており、怒り・恐れ・喜び・悲しみなどのように、比較的急速に引き起こされた一時的で急激な感情の動き。好き・嫌いのような感情も含む多様で複雑な心の状態とされています。

この情動と記憶を司る海馬は隣接しており両者とも大脳辺縁系に属しています。海馬と扁桃体はそれぞれが複数の脳部位を含む回路を主導しており、記憶回路をPapez回路と情動回路をYakovlev回路と呼びます。また、海馬と扁桃体は隣接していることから密に神経連絡をしており情報伝達しているそうです。

そのため、情動に強く関与した事柄は海馬に情報伝達され記憶が強化されるそうです。

また、情動にはpositive emotion(正の情動)とnegative emotion(負の情動)があります。この正の情動・負の情動ともに記憶の強化は図れるそうです。以前は負の情動がより記憶の強化が図れるといった文献が多かったそうですが、近年の研究結果より、両者ともに記憶の強化が図れることが分かったそうです。(ただ、リハビリテーション界では正の情動を用いた記憶の強化を図りたいところだが、この文献はまだ手にしていないので探してみます。)

文献的にも情動に関与した事柄は記憶強化されると発見されているため、訓練時にもただ単に患者に思考させるのではなく、主体性を持たせ、情動に働きかけることで教科書の丸暗記ではなく、患者の情動に働きかけれるような訓練の構築が大切だと再度確認することが出来ました。

2012年5月15日火曜日

脳卒中後アパシー

進藤 隆治(国府病院)

脳卒中後アパシー
筆者:小林 祥泰
機関名:神経心理学2011 Vol.27 No.3 220-226

訓練での片麻痺患者の記述において感覚的・認知的な要素と比べ現象学的な要素が少ないことを経験する。そのことに対し私は日本人特有の文化的背景から現象学記述が少ないことは仕方がないことだと自分の中で決め付けていた。そんななか、この論文を読み考えたことを書きたいと思う。

まず論文の内容を簡単に紹介すると、脳卒中後の「アパシー」と「うつ」の症状を分けて考えるべきだというものであった。アパシーとは便宜的には感受性、感情、関心の欠如と定義されており、その背景からなる機序には3つのサブタイプがある。1つ目は喜怒哀楽といった情動と、より高度な感情の連携過程の破綻であり、眼窩内側前頭前野皮質もしくは線条体、淡蒼球腹側の辺縁系の病変に関連する。2つ目は認知処理過程分断による計画策定等の実行機能の低下で背外側前頭前野皮質と、関連する背側尾状核(背外側前頭前野神経回路)の病変と関連している。3つ目は自動的賦活化過程の障害により自ら発想することや自発的な行動が障害されるが外的駆動による行動は保たれるもので、もっとも重度のアパシー(精神的無動)を呈し、両側前頭前野や両側淡蒼球病変によって生じやすいとしている。アパシーは障害受容の際にみられる「うつ状態」とは全く異なった病態であり、独立して存在するものである。

司令塔としての働きがある前頭前野の機能低下から生じるアパシーは、現象学的要素や志向性の問題にも関わってくると推測される。つまり、障害を持つことで感受性、感情、関心の欠如といった問題がでてくると言える。これは自分の中で大きな気づきであると思った。文化的背景から日本人は感情を言葉にできないといった理由ではなく、脳の器質的な問題により言葉にすることが難しいという理由があったからである。このことからイタリアでは文化的背景から現象学的要素を引き出す工夫をされていたといえ、日本特有の文化的背景から工夫ができれば、日本人も現象学的な要素を含めた身体の記述を語ることができるのではないかと思う。(あくまでも仮説である)

私のなかでは現象学的要素は重要だと認識しながらも、現状はなかなか訓練では活用できていない。しかし、セラピストの考えしだいで工夫できることはただあると考えられるので、これらを意識して患者と対話していきたいと思う。

2012年5月1日火曜日

臨床家の日常

首藤 康聡(岡崎南病院)

今日は大阪の勉強会に参加した帰路での出来事について書きたいと思います。会場から電車を乗り継いで新大阪駅で降車した時のことです。別に普通に電車を降りて階段に向かって歩き始めたんですがその時、僕は衝撃的なことに気がつきました。乗ってきた電車が進行方向に対して右に傾いていたんです。そして、その時なぜか僕はホームが斜めになってるから電車が傾いて見えるんだと思ってしまい、その瞬間に地面が傾いているように錯覚してしまったんです。そして、その瞬間に僕は足がふらついてしまいました。現実との乖離が生じてふらついてしまったんだと思いますが、ここで「はっ!」としたんです。

振動刺激による運動の錯覚やラバーハンド錯覚、幽体離脱などが有名ですが、錯覚は情報の矛盾によって生じるものとされています。このような場合、その瞬間の感覚の矛盾により錯覚が生じます。ですが、今回の場合はちょっと違います。地面が傾いている錯覚を感じた瞬間は床の水平性もそれに対する僕の下肢も適切な相互作用を行っていたはずです。なのになぜ僕はホームが斜めになっていると錯覚し足がもつれてしまったのでしょうか?

ここでこの時の僕を整理して見たいと思います。
①僕は電車が斜めであった事に気づかず電車に乗っていた。
②水平と思っていた電車(実際は斜め)から水平のホームに降りたった。
③普通に歩いている時に斜めになっている電車に気がついた。
④電車が斜めになっているのを見たが、斜めになっているのは電車ではなくホームだと思ってしまった。
⑤ホームが斜め(実は水平)になっていると錯覚してしまい、下肢と床の関係性が不適切になってしまったので、足がもつれてしまった。

以上の5項目が大きな流れです。この中で足がもつれた原因はどこでしょうか?一見、⑤の錯覚が原因のように思えますし、④が原因のようにも思えます。さて④でしょうかそれとも⑤でしょうか?皆さんは何番だと思いますか?実は④と⑤は原因にはなり得ないんです。⑤については錯覚が原因で足がもつれたのではないかとい方がいらっしゃると思います。確かに錯覚の結果、足がもつれているので原因のように思いますが、錯覚は現象にすぎませんし、その理由が存在します。つまりこの部分だけをピックアップして考えてみると、錯覚という一つの現象は足がもつれるという次の現象を生み出したと解釈できるからです。④については錯覚を作るきっかけになりました。確かに僕はホームが斜めになっていると勘違いしてしまったのですからこれが原因のようにも思えます。しかし、これも勘違いしてしまった原因があるはずです。ここでもまだ、勘違いという現象が出現した段階でただきっかけを作ったにすぎません。ですから原因にはなり得ないんです。

ここでの原因は①だと僕は思います。僕が電車は水平だと勘違いしたことがきっかけですべてのことの始まりなんです。

僕の内部世界では電車は水平だったんです。だけどホームからみた電車の傾きは僕にとっては矛盾した答えだったんです。電車が水平であるという僕の間違えた記憶を皮質は信じてくれてなんとかその矛盾した主張を通そうとします。主張を通すために脳はホームが斜めになっていると強引に情報を作ってしまったのです。それが足をもつれさせるといった結果につながったんだと思います。ハッとした点はこの点なんですが、数秒前の電車が水平だったという僕の記憶が錯覚を作ってしまったということなんです。時間のズレを伴った錯覚の出現って面白くないですか?

さて、一見、原因であると思われることも実は原因ではなく現象である場合があります。それが今回のことでよくわかりました。臨床も同じです。試行錯誤して原因にたどり着いた時、安堵してからもう一度考えて見ませんか?そうするとその裏に隠された原因にたどり着くかもしれません。思考の循環。最も基本で最も難しいことなのかもしれませんが、日常の生活の中で気づくこともあります。皆さんも日常の中でふと臨床に結びつくことが浮かんできたりしませんか?いかがでしょう。皆さんの臨床のヒントを教えていただけませんか?投稿お待ちしています。

2012年4月15日日曜日

いろんなことがラクになる!断捨離セラピー

佐藤 郁江(岡崎南病院)

やましたひでこ監修 あいかわももこ著 青春出版社

断捨離、ものから「捨てる」「断つ」「離れる」ことであるのですが、ただやみくもに捨てればいいのではなく大切なのは‘モノときちんと向きあう’こと、‘モノに感謝すること’と書かれていました。最初の断つという言葉から片付けが苦手な私がこの本自体を購入することがすくにはできませんでした。

この本自体は漫画家である著者が実際に経験したこととして書かれています。その息子さんの言葉で「使ってないけど、使ってる」とありました。捨てることにおいてもその人にとって要るものがあるため「人のモノには手を出してはいけません」となっていました。これは患者さんにも言えることなのではと考えました。患者さんにとって今まで行ってきたことを否定されるだけでは納得がいかないで捨てることはできません。もう一度患者さんにとって必要なのか‘患者さん’が向き合うことが大切になってくるように感じました。

また私の中でも情報においてもこのような断捨離の考え方が必要になってくるようにも思いました。特に「離れる」項目のところで、距離をとることで見えてくることがあるはず、とあり今までの事にこだわってしまうことで見えなくなってしまっていることがあると思いました。そして、モノが多すぎると使っていないものも存在していると書かれていました。情報量が多すぎてもパニックを起こしてしまうことがあるため、必要に応じて捨てる、断つことも必要では?と感じています。

もちろん新しい情報に触れて、自分の中で必要かどうかを考えるということだと思います。

始めに購入した目的は自分の家の整理が苦手だったからです。私は去年家の建て替えでいろいろなものを処分しました。それでも徐々に物は増えていきます。こちらも手が付けられなくなる前に整理をしていかなければと考えています。

2012年4月1日日曜日

ピアニストの脳を科学する

尾﨑 正典(尾張温泉リハビリかにえ病院)

ピアニストの脳を科学する 超絶技巧のメカニズム
著者 :古屋晋一 出版社 :春秋社

ピアニストが演奏をしている画像見ていると実に巧みな手指の動きと異様なほどの速度、身体表現、正確なタッチ、滑らかな動作、何とも言えない感情を生みだす音色をいつもすばらしいなと思っていました。また、ピアニストが演奏している時の脳の状態や身体は、どのようになっているのかを考えていました。

著者は3歳からピアノを始め大学生の時に、ピアノの練習で手を痛めてしまいピアノを弾く身体の働きについて興味を持ち「どう身体を使えば、手を痛めずに幸せにピアノを弾けるのか」という問いに答えてくれる科学に、メスをいれた研究がはたしてあるのか、徹底的に調べた結果、ピアニストの身体の動きについて詳細に調べた研究は国内外を問わず、皆無に等しいことを知り絶望したそうです。しかし、著者は誰もやっていないのであれば、一からやるしかないと意を決して大学院から脳や身体について学習しはじめ、ピアノ演奏と脳と身体の研究を一貫して行っています。

著者は「ピアニストは、感性豊かな芸術家であるとともに、高度な身体能力をもったアスリートであり、優れた記憶力、ハイスピードで膨大な情報を緻密に処理できる、高度な知性の持ち主です。考えてみると実に不思議な能力をもった、世にもまれな存在なのです」とピアニストを表現しています。

第一章の「超絶技巧を可能にする脳はいったいどのようになっているのか」の中でピアニストの脳機能について以下のように語っています。
・ピアニストとピアノ初心者で比較した場合、小脳の体積が5%大きい,
・一日の練習時間が長いピアニストほど小脳の体積が大きい。大脳基底核の被殻が小さい。
・指の動きを思い浮かべるイメージ・トレーニングの有効性。
・ピアニストがピアノの音を聴いている時には音を聴くための神経細胞だけでなく、指を動かすために働く脳部位の神経細胞も同時に活動している。
・間違った鍵盤を弾くおよそ0.07秒前に、帯状回皮質から「ミスを予知する脳活動」がおこりミスタッチする際に打鍵する力を弱める。
・他のピアニストが演奏しているビデオ映像を音を消した状態でみせているにもかかわらず聴いているピアニストの脳内では音を聴くための神経細胞が活動している。目からの情報をおとの情報に変換する脳回路がある。トランペット演奏者は唇の皮膚の感覚を音の情報に変換する脳回路がある。など
第一章の中の説明を単語化すると
・異種感覚情報交換・運動イメージ・視覚イメージ・フィードフォワードシステム・フィードバックシステム・小脳学習・カクテルパーティ効果・ワーキングメモリー・脳の可塑性・環境との相互作用など、私達が臨床中で患者を治療する場面で常に考えていることに結びついています。

ピアニストの3大疾病として①腱鞘炎②手根幹症候群③フォーカル・ジストニアがあるそうです。フォーカル・ジストニアとは多くの場合、痛みやしびれはなくピアノを弾こうとすると、意図せず手指の筋肉に力が入って固まってしまったり、動かそうと思っていない指が動いてしまったりと、思い通りに手指を動かせなくなる病気でピアノを弾こうとすると薬指と小指が意図せず丸まってしまう症例があり、発症してしまい演奏家生命が絶たれてしまう人は少なくないそうです。このフォーカル・ジストニアの治療がいくつか挙げられており、ボツリヌス投与、CI療法、バイブレーション療法などが現在行われていますが、完治につながる治療法は確立されていないとのことです。

皆さんなら認知神経リハビリテーションの理論を用いてどのように治療しますか?
言語記述・運動イメージ・視覚イメージ・健側との比較・スティック課題・重量課題、様々な治療仮説が立てられると思います。

この書籍は、「ピアニストの脳を科学する」という表題ではありますが「ピアニスト」を多角的な見解で述べられており、自分自身の音楽、音色の聴きかた、音楽家の身体の見方が変わりました。ピアニストの高度な技術、身体能力、豊かな感受性、脳機能などにより感動を生みだす演奏が奏でられている。その水面下では、様々な障害に苦しんでいることを知ることができました。

2012年3月17日土曜日

のだめカンタービレ

荻野 敏(国府病院)

作:二ノ宮知子 出版社:講談社(2001~2010年)

「のだめカンタービレ」はkissという雑誌に2001年から2010年まで掲載された漫画です。巻数は全25巻発刊、映画やドラマ化もされ世にクラシックブームを引き起こすきっかけとなりました。僕がクラシック好きということを知っている人も多いと思います。2007年に開催された第8回日本認知運動療法研究会学術集会の準備で奔走しているときに、クラシックに触れてその面白さにはまりました。それ以来、クラシックに親しむことが増えて、昨年はピアノコンサートに2回、NHK交響楽団のコンサートに1回行ってきました。

「臨床のヒント」は愛知の勉強会の運営委員が、日常の中でふと感じた認知運動療法に関連する「知識」を表現する場です。難解な文献や最新の知識は他の運営委員に任せて、僕はもう少しざっくりしたヒントをここで書きます。そして今回のテーマは「のだめカンタービレ」です。



果たして「のだめカンタービレ」で何が語れるのか、疑問に思う方もいるかもしれませんね。今回はこの漫画から2つの点をピックアップしてみたいと思います。まずは、簡単にこの漫画のストーリーから。

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ピアノ科に在籍しながらも指揮者を目指すエリート音大学生・千秋真一は、胴体着陸の恐怖体験による重度の飛行機恐怖症に加えて海で溺れたことのトラウマのため船にも乗れないことから、生まれ育ったヨーロッパに行くことが出来ず、将来に行き詰まりを感じて思い悩む日々を送っていた。担任の教授の教育方針に反発し口論の末に決別、別れた彼女にもつれなくされて自暴自棄になっていた。

ある日、千秋は酔っ払って自宅の前で眠ってしまう。目が覚めると周囲にはゴミの山と悪臭、そして美しいピアノソナタを奏でる女性がいた。彼女の名前は野田恵(通称・のだめ)で、なんと千秋と同じマンションの隣の部屋に住み、同じ音大のピアノ科に在籍していたのだった。入浴は1日おき、シャンプーは3日おきというのだめだったものの、千秋はのだめの中に秘められた天賦の才を敏感に感じ取る。そしてのだめもまた、千秋の外見と音楽の才能に憧れて彼に纏わり付くようになる。この出会い以来、千秋はのだめの才能を引き出すべく、何だかんだと彼女に関わるようになる。

将来に行き詰まりを感じていたため無愛想だったが、本来は面倒見が良い性格の千秋は、のだめとの出会いを機に彼女の存在が潤滑油となり、音大の変人たちに出会い、懐かれ、順調に道を踏み外しながらも音楽の楽しさを思い出し、新しい音楽の世界と指揮者への道を一歩一歩切り拓き始める。また、千秋の存在によりのだめもより高い技術を得るための指導者や、環境に出会う機会を得て、それぞれが成長していく。
(Wikipediaより転載)
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まず、一つ目の点。これは漫画です。漫画はどの知覚モダリティを用いるかと言えば当然、視覚と文字。漫画からは音は聞こえません。そしてその世界観の触覚を感じることはできません。クラシックの世界を漫画で表現するなんてことは、普通は考えられませんよね。もちろん、アニメーションや映画・ドラマならクラシックを表現することは可能だし簡単です。でも、「のだめカンタービレ」は漫画から人気が出て、様々なメディア化をされました(そういえばDSのソフトにもなっていました)。漫画を読みすすめていくと、様々なクラシック音楽を演奏するシーンが描かれている場面を見かけます。そしてそのシーンを読んでいると頭の中で音楽が奏でられてきます。視覚情報から聴覚情報が呼び起される・・・・。ひとの感覚や感情の不思議を感じてしまいました。

もう一つ。第8巻に、のだめと千秋のメールのシーンがあります。のだめはコンクールに出るためにシューベルトのピアノ曲を練習します。しかし、なかなかうまく演奏できません。そんな中、のだめは千秋にメールをします。

Sub:シュベルトは
気難しい人みたいでが
んばって話しかけても
なかなか仲良くなれま
せん。お昼はかに玉で
す♡

千秋はそのメールに対して以下のような返信を書きます。

Re:シュベルトは
本当に「気難しい人」
なのか?自分の話ばか
りしてないで、相手の
話もちゃんと聴け!楽
譜と正面から向き合え
よ。

さて皆さん、このメールのやり取りを読んで、どう思いましたか?何も思いませんでしたか?僕は千秋のメールを読んでかなりドキッとしました。皆さんは患者やスタッフに対して一方的に話をしていませんか?本当に患者やスタッフの声を聞いていますか?自分の考えを主張することはとても大切です。そしてその考えを説明するだけの知識を持つことも大切です。しかし、立場が弱い人は立場が強い人から何かを言われたら反論をすることもできずに理解したふりをしてしまうかもしれません。

「自分の話ばかりしないで、相手の話もちゃんと聴け」

記述を引き出すこと以前に、相手とのコミュニケーションを大切にする。「関係性」を重要視する治療法だからこそ、最初の一歩をはき違えないようにしたいですね。そんなことを「のだめカンタービレ」を読んで反省させられました。皆さんもたまには漫画を手に取って一服してみてはいかがでしょうか?意外と発見があるかもしれませんよ。

2012年3月1日木曜日

自己認知と自己評価の発達とその神経基盤

井内 勲(岡崎共立病院)

自己認知と自己評価の発達とその神経基盤
筆者:守田 知代・板倉 昭二・定藤 規弘
機関名:ベビーサイエンス 2007 vol.07  pp.22-39,2008

我々が臨床場面で脳損傷により自己の身体感覚や、ボディーイメージを損傷している患者にしばしば遭遇し、そしてそれらの神経生理学的な視点を色々模索すると思う。
この論文の研究はその中の一つである。

筆者はこの研究の注目すべき点として、右前頭前野にみられた2領域(運動前野、下前頭回)の活動であると述べる。脳損傷患者の臨床的知見によれば、右側前頭前野が自己関連プロセスに関与していることは指摘されているものの、損傷部位の正確な位置を特定することが困難であるために、領域内の機能的な違いについてはあまり議論されていない。よってここでは心理学、発達心理学的な知見を背景に自己認知と自己評価の差異について、ニューロイメージング研究から明らかとなった2領域の活動パターンの違いを検討し、各領域が担う役割(運動前野は自己認知、下前頭回は自己評価)について考察している。

私見としては、『右側運動前野の機能として自己と他者を単に識別するという視覚的なプロセスだけでなく、そこから派生する自己像に対する関心や意識などに深く関連している可能性が推測される。』ということから、寝返り時に予測的に自己像を想起することが困難で手を忘れたりすることは、自己への関心や意識などが影響していることを改めて考えてみた。
また右側下前頭回は自己評価プロセスにおいて重要であり、その活動は自己評価の結果生じる恥ずかしさ(自己意識情動)の強度と関係し、『これが強く喚起されることで自己評価プロセスは抑制されてしまうかもしれない。』とある。よって自己評価プロセスの発達には『羞恥心』(ネガティブ情動)ではなく『プライド』(ポジティブ情動)が必要ではないかと予想してみた。

いかにすれば患者が自身の身体に興味を抱き、自らその身体を改変させ、環境に相互するすべを手に入れるのか。
こんな事を考え、日々模索する。

2012年2月17日金曜日

動作模倣における知覚と運動の変換過程に関する文献研究

林 節也(岡崎共立病院)

動作模倣における知覚と運動の変換過程に関する文献研究-理論の動向と今後の課題-
筆者:水口 崇・出口 利定
機関名:東京学芸大学紀要1部門 56 pp.149-159,2005

 高次脳機能障害の一つである失行の勉強を進めていくと、知覚と運動の変換過程についての勉強することになると思います。失行とは「学習された意図的な運動を遂行できない状態」と定義され、評価の中には物品ありと物品なしとで、敬礼やじゃんけんのチョキ・金づちの使用などをセラピストが指示を出し運動表出させたりセラピストの模倣をさせたりして、患者の誤反応を評価します。訓練では一般的には自然な場面で動作訓練や刺激促通法があげられることがあります。

 しかし、こういった訓練では、外部観察上見られる行為の部分へのアプローチが主流のように思えます。決して否定をしているわけではありませんが、なぜ模倣ができないのか?物品の使用がなぜ出来ないのか?を考えて文献を読んでも、答えが見つかりませんでした。そこで、認知神経リハビリテーションの高次脳機能障害の勉強を進めていくと、解読・変換・産生という言葉を聞き、なぜ模倣ができないのか?物品使用障害が出現しているのか?の答えが見つかったように思いました。

 この文献は、動作模倣と音声模倣における知覚と運動の変換過程について4種類の理論(Direct Mapping Theory・Active Intermodal Mapping Theory・Goal Directed Theory・Dual Route Theory)を提示し、それぞれを詳細に紹介しています。細かい内容は直接文献を読んで頂いたほうがわかりやすいので割愛させて頂きますが、新生児模倣や記憶・表象の関係。ミラーニューロンは知覚と運動が直接変換しているなど幅広い情報が記載されいます。また、今後の課題では、動作模倣と音声模倣の処理機構についての共通性を明らかにする必要性があると記載されています。
 
 高次脳機能障害は運動麻痺や関節可動域障害とは違い目に見えにくい障害です。我々セラピストは、模倣における処理機構を学ぶことで、失行患者に対するアプローチを再度見直し、患者と関わっていかなければいけません。

2012年2月1日水曜日

養老流 子育て論

進藤 隆治(国府病院)

So Da Tsu com より 新しい生命へ 養老流 子育て論

私事であるが、昨年子どもができました。仕事と育児に日々精進して過ごしているわけですが、そんな中ネットで養老孟司先生の育児論が書かれた文章を見つけました。

養老先生は、子どもは自然の世界であり、自然の世界に属している子どもを人間の世界へひきこんでいくという過程が子育てであると考えています。これは子どもが人間社会に適応していく術を教えることが育児であると解釈できると思います。そして養老先生は「ああすれば、こうなる」という考え方は自然相手に通用しないと言っていました。ここでいう自然とは人間が設計することができないという意味だそうです。自然とは子どものことだけでなく人間全体に言えることであり、もちろん私たちが関わっているリハビリ対象者の方々にも当てはまることです。

ここではリハビリについて話しはしていませんが、リハビリの治療においても「ああすれば、こうなる」は通用しない場面がただあることを私達は経験します。ただ「ああすれば、こうなる」を通用させようとしてしまう風景があるように思います。例えばこの患者にはこのやり方が合っている、色々な考え方を知ってその中からその患者に合う手技を選択すればよいという考え方がそうだと思います。それが悪いわけではないでしょうが、私自身はそのやり方はよいとは思いません。人間を自然と解釈すれば「ああすれば、こうなるのではないか?」といった仮説-検証のスタイルで、手入れのように試行錯誤しながら進めていくことが重要だと思います。セラピストは人間が作り上げた物を設計図を見て直す技術者ではなく、人間という者に環境との関わり方を教える教育者であることを忘れてはならないと思いました。

余談ですが、最後に面白い調査のことが書いてありました。それは夫に対する妻の愛情と、妻に対する夫の愛情をチェックした調査です。新婚のスコアを100として、その後の点数をつけていきます。5年、10年、15年経つと、どのように変化していくかを見たものです。それには次のような結果がでていました。夫の愛情は波こそあれ平均すると横ばいになるが、妻の愛情はきれいに右肩下がりであるというのです。その理由として一番はっきりしていることは「育児の責任」だそうです。育児の責任とは、オムツを替えるとか家事をするとかそういうことではありません。子ども世話を妻に押し付けっぱなしで息抜きできない状態にさせてしまったり、育児に対して無責任だと思わせる発言をしてしまうことだそうです。そういったことで愛情が下がるとおっしゃっていました。

う~ん、何だか複雑な気分になりました・・・

2012年1月15日日曜日

ソーシャルブレインズ

首藤 康聡(岡崎南病院)

ソーシャルブレインズ  -自己と他者を認知する脳-
開一夫/長谷川寿一(著)  東京大学出版会

自己や他者の認識はリハビリテーションにとって重要な1つの要因です。リハビリテーションで自己とは時として患者さんでありセラピストであるし、他者とは時として患者さんであり、セラピストです。その時その時の文脈によって、自己と他者がめまぐるしく入れ替わり、場合によっては一人の人間の中に同期する事だってあるかもしれません。或いは明確に2者を分ける事はできないのかもしれません。

正直よく分かりませんが、しかし、ここで明らかになっている事があります。それは、少なくとも2人以上の人間が存在し、そこには「社会」が存在するという事です。リハビリテーションが1つの社会を形成するのであれば「ソーシャルブレイン(社会脳)」を勉強して行く必要があるとは思いませんか?

この書籍は社会の基本的構成要素の「自己」と「他者」に焦点を当てて書かれており、その情報源は進化・比較認知科学、発達心理学や脳機能イメージング、さらにはロボット工学の分野からも考察が書かれています。僕自身、今までロボット工学が自己や他者の理解にどう繋がってくるのか疑問視していましたが、この書籍を読む事で少しその意味がわかった気がします。さらに、心の理論や自閉症についても触れられており、小児リハビリテーションへの理解も深まると思います。また、本書の中に散りばめられた“ topic”や“keyword”も十分楽しめると内容です。

さて、余談ですがこの書籍の執筆に当たった先生方の研究会に参加させていただいた事があるんですが、その時のディスカッションが衝撃的で今でも鮮明に覚えています。レベルが高いのはもちろんなんですが、皆さんが徹底的に意見をぶつけ合うんです。でもいったん休憩にはいると和やかに談笑されていたんです。リハビリテーションの勉強会に参加しているとその様な場面に遭遇する事はあまりない気がします。でも、必要な事だと思いませんか?