2013年12月15日日曜日

音階

荻野 敏(国府病院)

前回、前々回のヒントでなんとなく経験談の話の流れなんで、僕も経験談を少しだけ。

娘がまだ小さかった頃、僕の妻が娘にドレミファソラシドの音階を教えていました。僕が帰宅をすると、妻は不機嫌そうに娘に音階を教えていたんです。でも娘はまったく理解できない様子でした。娘の目には涙が溜まっていて今にもあふれそう。妻はなんでわからないの!といった様子で音階を指差して「これがミでしょ!」とか教えている。とっさに僕は今の状況を感じ取って「この教え方じゃダメだ」と思いました。

すぐさま妻に「俺が教えるよ」と言い、妻をキッチンへ行かせ、僕は娘を膝の上に乗せて音符の書かれた五線譜を一緒にのぞきこみました。

「これはなに?」と聞いても娘は「??」といった様子で答えられない。でもちゃんと鍵盤をたたいて音階を鳴らすとそれは理解できています。つまり音階と言うものがあることはドレミファソラシドといった音の周波数レベルでは理解できているのですが、それがこの周波数が「ド」、この周波数は「ファ」といった言語のレベルで結びついていないようでした。しかも、それが五線譜といった何本も線が書かれた図の中に黒い丸が書かれているという視覚レベルと結びついてもいないのです。

「よーし、じゃあ目を隠して当てっこね」と言って僕は娘の目を手で隠し、音階を鳴らしながら「これが“ド”だよ、ここの丸ね」と娘の手を持って指先でその黒丸の位置に持って行きました。「こんどは“レ”ね、ここだよ。どうなった?」と聞くと「離れた」(ここで娘が離れたと言ったのか遠くに行ったと言ったのか上に行ったと言ったのかは記憶が定かではありません・・・)と答えました。その調子で音階をすべて聴覚・視覚・言語・体性感覚で経験さえて、実際に認知問題を出してみます。「じゃあ、これが“ド”だよ、二つ上に行くと何かな?」と手を持って二つ上に動かして問うと「ミ」と答えます。じゃあ「これは?」と基準となる位置を少しずつ変えながらいくつかの問題を出してみました。それなりにわかってきたと思ったところで、実際の五線譜を見せながら、「これは?」と聞くとドレミファソラシドがすでに言えるようになっていました。この間、ものの10分足らず。子供の学習能力は高いのかあっという間に聴覚・視覚・言語・体性感覚の関係性を理解して記憶してしまったのです。

僕は娘にいろいろ教えました。ローラーブレード、自転車、一輪車(これはもう乗れないみたいですが)など。自転車は補助輪を一度もつけていないし、一度も転ばずに覚えました。親になり、子供と遊びや学習を共にしていきながら、認知運動療法を勉強してよかったなと思うことが多々ありました。

でも娘はそんなことをまったく覚えていません。僕に教えてもらったということを一切否定しています(笑)。かろうじて妻が肯定してくれていますが。そこまで娘にかたくなに否定されると僕の記憶違いだったんじゃないかって不安になるぐらいです。覚えること・学習すること・その記憶があやふやになることもすべて人間の脳の不思議だなあって思いました。

2013年12月2日月曜日

痛感

岡崎共立病院 井内勲

前回の首藤先生に続いて体験談、その2という感じになってしまいますが、最近ランニング、筋トレを始めました。きっかけはともあれ、情けないことに数回目にしてランナー膝のような症状が出現。これをきっかけに日常生活において腸脛靭帯の有難さを体感できたのは良かったのですが、結構これが痛く、立ち上がりや歩行に痛みの影響が強く出ました。

また時期的にも慢性でないにもかかわらず、確実に自分の身体図式を疑うようなエピソードも多々ありました。例えば、少々慌てながらのスタッフルームでの移動中に、机とスタッフの間をうまく曲がれず机の角で腰を強打…その日、朝からの逃避歩行は周知されていたのでスタッフからは、「身体イメージまできてますよ。」と失笑されてしまう始末。

当然、症状が出て疼痛の強い時は、膝は過剰に負の刺激を伴いながら存在(膝の身体部位すら大きく感じるほど)していました。そしてそれは立つことすら億劫にするだけでなく、徐々に恐怖に似た嫌悪感も加わりいつの間にか立ち上がる時、痛みのチェックというより、むしろ探すように痛みを意識している自分がいることに気づきました。そうなると自ずと立ち上がり動作に手を使って代償してしまうのですが、すぐに代償行為は当たり前のように自然に立ち上がり動作の一部となっていました。またその立ち上がり行為は初動時から無意識に重心をほぼ反対側にシフトし、むしろ動く前から予測的に抑制しているようであることに気づきました。「これではいけない」と思い、上肢で代償するのだからせめて意図的に重心だけでもまっすぐにしないといけないと、患側坐骨に重心をシフトせた瞬間に「痛い!・・・かも。」と一瞬、疼痛にも似た刺激が、恐怖を助長しました。

このようなことから自分の痛みの情動的な側面は確実に予測や注意、記憶といった高次機能にも影響いている、と思った時、疼痛の急性期と慢性期はどこまで急性疼痛で、どこからは慢性疼痛と時期的な境界というよりも、こんなことの積み重ね、不快な経験の重積なんだろうなと感じました。

治療において疼痛を出さないようにすることは当然ながら、早い段階から疼痛の情動的側面や、認知的なプロセスを踏んだアプローチを丁寧に試みないといけない、と再確認させられました。
まさに身を削っての痛感ですね。