2015年2月1日日曜日

死生観について

荻野 敏(国府病院)

先日、久しぶりに所属する病院の院内勉強会で講義をする機会を得た。タイトルは「死生観について」。所属する病院では接遇委員会に属しており、様々な点から接遇を考えている。最近は、知・情・意から職業人としての自覚を持ち、研鑽していこうという観点から接遇委員会が院内勉強会の内容などを考えている。そして今年の一発目が「死生観について」だった。

自分が死ぬ。そのことを意識したことがあるだろうか?

そしてどうやって死ぬのが理想だろうか?

死を単に医学から見るのではなく、哲学や社会学などの領域から掘り下げてみた。皆さんはいったいいつの時点が死んだことになると思うだろうか?

普通は、心臓が止まり瞳孔が散瞳して・・・、というのが死だと考えるだろう。でも社会学的に心理学的に哲学的にそれを死とは言い切れない。

養老孟司さんは「一人称の死体」「二人称の死体」「三人称の死体」という概念を取り上げている。ジャンレケビッチの「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」とよく似ているが、「二人称の死体」とは「死体でない死体」だそうだ。つまり死体には見えないのだと。われわれの肉親や仲のよかった友人知人が亡くなって死体としてそこにいても、それは死体には見えず、「その人」そのものであることに変わりはないと。確かにそうだ。そうすると「あいつは俺たちの心の中に生きている」っといった言葉はまさに社会学的・心理学的・哲学的な死ではない。

死は、誰にでも必ず訪れる。人は致死率100%。そしてその死に様は生き様の集大成として現れる。放蕩ばかりしていた人の生き様とその死に様。家族に愛されて生きてきた人の生き様とその死に様。どちらがよい死に方になるのだろうか。少し考えればわかるだろう。とすると、生きることは死ぬことだし、死ぬことは生きることだ。

そして、事故死や突然死は死の準備をする時間もなく、突然やってくる。反対に癌などの疾患なら死の準備ができる。残された時間を有意義に使うことができると考えることもできる。

死ぬことは生きることであり、生きることは認知することだ。

死生観を考えることによって、生きることを見つめなおすことができ、環境と相対しながらまさに環境の中で生きている患者に向かい合うことができるような気がした。

しかし、今日もまた、悲痛なニュースが世界を駆け巡る。

あまりにも悲しい。

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